早雲の時代

252 ~ 252
 このとき、駿河守護今川氏親の客臣で、興国寺城(沼津市)を預かっていたのが北条早雲(伊勢新九郎)であった。早雲は大志を抱き、「蟠龍が来復の時を待つが如く、いつしか豆州に幡(はた)を立てんと、国の虚隙(すきま)を伺って」(『後太平記』)という状況であったが、この混乱をみて、好機逸すべからずとして、延徳三年(一四九一)堀越御所を急襲した。そしてたちまち伊豆一国を手中に入れた。これは、後北条氏の五代百年にわたって大征服を遂げた第一歩であるとともに、戦国時代の開幕を告げる歴史的事件であった。
 次いで明応四年(一四九五)には、相模への進出を阻む小田原の大森氏をも急襲して、小田原城を奪い取った。その次は三浦半島奪取である。永正一三年(一五一六)三浦半島の豪族、三浦義同(よしあつ)(道寸)・義意(おき)父子を半島の先端新井城(三浦市)に追いつめて、これを滅亡させた。
 しかし、三浦父子を倒して相模国の大半を平定した早雲は、永正一六年(一五一九)その波乱にとんだ一生を閉じた。享年八八才であった。そして家督は氏綱にゆずられた。