氏綱の時代になって初めて北条氏と称した。早雲が確保した伊豆・相模を土台として、更に武蔵へ進出していった。
大永(だいえい)四年(一五二四)正月一三日、江戸城に扇谷上杉朝興を攻略して、河越城に追った。翌五年二月六日には岩付(槻)城を攻めて城主太田資頼を敗走させている。その年には更に葛西城(葛飾区青戸)などを攻め、八月二三日には白子原(和光市)で戦いが行われた。
その頃から、房総の里見義堯(よしたか)との戦いも始まり、甲斐の武田信虎とも戦っていた。
享禄三年(一五三〇)氏綱の嫡子氏康が、扇谷上杉朝興を武州小沢原(東京都稲城市)で破った。これは一六才になった氏康の初陣であった。
河越に退いた上杉朝興は、その後、鋭意失地回復につとめたが、意をはたさぬまま天文(てんぶん)六年(一五三七)に死没した。その跡を継いだ朝定は、父の遺言によって、その仏事をも差しおいて、北条討伐の軍を派遣した。しかし、入間郡三ッ木(狭山市)の戦いで大敗し、ついに河越城を棄てて松山城へ退いた。しかし勝ちに乗じた北条軍は直ちに松山城へ攻め寄せたため、朝定は城将難波田氏とともに上州の山内憲政のもとに逃れた。
翌七年(一五三八)一〇月七日、北条氏綱・氏康は、小弓(おゆみ)御所足利義明・里見義堯(よしたか)を国府台に破り、義明は戦死し、義堯は安房へ敗走した。国府台合戦といわれる。
こうして関東南部を制圧し、後北条氏の関東南部における基礎を確立した。