氏康が没したのは元亀(げんき)二年(一五七一)であった。あとを継いだ氏政は、父の遺志を奉じて領国の拡大強化につとめた。氏政の時代に有名なのは、駿河深沢城(御殿場市)をめぐって、永禄(えいろく)一二年(一五六九)から元亀二年までの長期にわたる武田信玄との戦いである。講和交渉の結果戦いは終り「甲相一和」となった。ところが、この同盟を聞いて怒ったのは上杉謙信である。当時氏康と謙信との関係は同盟関係にあり、氏康の子氏秀が謙信の養子となって、上杉景虎と名乗っていたのであった。早速、元亀三年から氏政と謙信との戦いが始まり、天正(てんしょう)六年(一五七八)の謙信の死まで続いた。
更に天正七年には、武田勝頼を敵として、上野で戦った。戦国時代とはいえ、戦国大名の合戦は、卍巴(まんじどもえ)と限りなく続いた。