「殿」という敬称をつけてよばれるのは「御家門方」とよばれる六家だけである。
「小田原編年録」によると、この六郷殿というのは、この頃客分となって、北条家に属していた行方(なめかた)弾正をさすのが一般的であるが、行方与次郎という武将が大森六郷辺を領していたことが、この役帳に記載してあるので、別人であろうと述べている。そして、これは上杉憲勝のことであろうとしている。
上杉憲勝が後北条氏の客将となった経緯を素描すると、次のようである。
上杉謙信は、後北条氏に奪われた武蔵国を奪回するため、永禄二年(一五五九)一〇月上野に進出し、先ず厩橋(うまやばし)(前橋)を攻略した。それに呼応して、永年、北条氏に対抗していた岩槻の太田三楽斎も、奮起して勢力の挽回につとめた。謙信は更に南下して比企郡に兵を進め、上田案独斎朝直の守る松山城を攻め落し、上杉憲勝(のりかつ)を迎えて城を守らせた。
この憲勝は、相模七沢城主上杉(扇谷)朝昌(ともまさ)の子で、兄朝寧(ともやす)の後をついでいたが、年来奥州辺で流浪していたのを尋ね出し、上杉新蔵人(くらんど)憲勝と名乗らせ、城主とし、岩槻から勇士二〇〇騎を添えて守らせていた(「太田家譜」)。
謙信は松山城の後仕末を終えると早速越後へ引上げたが永禄四年には信州川中島で武田信玄と合戦をした。
謙信が関東にいなくなると、北条氏は再び勢力を盛り返した。北条氏康は永禄六年二月になると、上杉軍の手にあった松山城を、大軍をもって取囲み、攻め落そうとした。ところが、「嶮岨の要害にして、たてこもる人数多く、兵粮・矢玉も事を欠かず、早速には陥るべしとは見えず」(『関八州古戦録』五)。この上は、同盟関係にある武田信玄の援助を頼むほかはないとして出馬を懇請した。
信玄父子は二五、〇〇〇余騎を率いて参加したので、両軍併せて五六、〇〇〇余騎で攻め立てたが容易に落城しない。攻めあぐねた北条・武田軍は、地元の勝(すぐろ)式部少輔(しょうゆう)を城に入れて城の明け渡しを説得させることにした。
城内では、水口を絶たれたため、とてもこの上永く籠城は不可能とあきらめ、上杉謙信が救援途上にあることは夢にも知らず、三月二日に城の明け渡しを承諾した。
北条氏政は、降将憲勝を迎え、懇志を述べて小田原へ送り、武州都筑郡で三〇〇貫の食邑を与えた。松山城は上田暗礫斎・同上野介朝広に守らせた。
上杉謙信は、松山城救援のため、武蔵に出陣したが、三月四日、武州石戸(北本市)の渡しに達すると、すでに城主上杉憲勝は、北条氏に降伏したあとであった。二日のちがいであった。謙信は激怒して、人質にとってあった憲勝の子を殺して越後へ引上げた。
以上は、役帳記載の六郷殿を上憲憲勝に比定して、その略歴を記したのであるが、憲勝が御家門方として厚遇されることに疑問があり、松本新八郎氏は、これは六郷二階堂氏をさすのではないかと筆者に示唆されたことがある。資料の関係上、まだ調査は行きとどいていない。