御宿隼人佑(みしゅくはやとのすけ)

257 ~ 257
小田原衆である。「入西勝之内広野」の知行人である。
「入西(にっさい)」とは入間郡西部をさす。「勝(すぐろ)之内」とは、この近辺は広く勝呂郷というからであり、「広野」は後に上広谷・下広谷・五味ケ谷の三か村に分れた地域である。
 「大普請之時半役」というとき、大普請(ふしん)とは城普請などの大土木・建築のときの出役や出銭を半分にすることである。