布施弾正左衛門(康則)

257 ~ 257
小田原衆に属し、相模衆一四家の一家である。また、御旗本四八番将の一人で、寄子(よりこ)二〇人を有する後北条家の重臣である。
 寄子とは、戦国時代には有力な武将を寄親とし、在地土豪を寄子として、軍事組織を編成した。
 この布施弾正左衛門も、間宮豊前守も、いずれも相模衆である。かつては小田原城主大森氏に仕えた武将である。大森氏は早雲に鹿狩りの謀略のもとに小田原城から追い落されたのであったが、その仇敵ともいうべき早雲の重臣となったのは何故か。
 『小田原記』によると「ここに松田左衛門という人あり。これは公方(くぼう)家の忠臣たりし故に、上杉の下知(げち)に従って、相州西郡にて度々合戦したりけるが、早雲、小田原へ入り給うと聞き、大いに悦び、最前に馳せ参って、一つとなる。この他、群臣積切(ママ)相従う」。松田左衛門の悦んだわけは、『北条五代記』によると、「早雲は仁義をもっぱらとし、ひとえに民をあわれみ給うゆえ、人の国までも思い服せずということなし」。かくて早雲は徒手空拳、伊豆・相模両国を征服したのである。