先述の「小田原衆所領役帳」は、後北条氏の一門および家臣らの氏名を記した単なる名簿ではない。これは「所領役帳」と明記してある通り、戦国大名としての後北条氏が、この一門と家臣などへ諸役を賦課するために、その諸役賦課の基準となる各人の役高を記入したものであり、そして、日常繰返される合戦に備えたものである。
例えば、「六郷殿 廿貫文 臑折」と記した場合、臑折村の全生産高が廿貫文あるということではないし、六郷殿の臑折村における全所領が廿貫文というわけでもない。この「役帳」は、六郷殿が臑折で廿貫文の役高をもっていることを示しているだけである。
「役」というのは、軍役のほかに普請役などがあり、普請役は築城などの土木工事であるが、戦時だからもちろん軍役が一番重要であった。
軍役を一門・家臣に賦課する場合、その規準となるのは知行地の規模である。その規模に応じて軍役が賦課された。臑折の六郷殿は廿貫文の規模の土地を知行していたわけであるが。この「貫高」は、その所領からとれる年貢を銭(ぜに)で表示した数である。江戸時代には土地の生産高を「石(こく)高」であらわし、これに一定の率をかけたものが「税高」であったが、後北条氏時代には、生産高で表示せず、直接に税高を基準にしたのである。この制度を貫高制という。
後北条氏の税制は、地域的・時代的に多少の変動はあるが、田一反について五〇〇文、畑一反について一六五文の年貢貨幣納付を建前としていた(安良城盛昭「大閣検地と石高制」)。