第三節 検地

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 貫高制は、田一反五〇〇文、畑一反一六〇文というように、土地に対する課税額を銭(ぜに)高(貫文)に換算し、その税額で土地の面積をあらわす方式であることは前述の通りである。その貫高を定めるためには、前提として土地の広さを測定することが必要である。その測定することを検地という。
 後北条氏は、早雲以後、代替りや新領土獲得のときなどには検地を行い、課税の公平を期したが、弘治元年(一五五五)ごろにはいちおう検地による税制が確立したといわれる。
 もっとも戦国大名の検地というのは、戦国争乱のさなかであるし、また、征服地にすぐさま検地を実施することは、農民の抵抗もさけられなかった。それで、のちの太閤検地のように、おびただしい検地役人を引連れて、現地に立入り、綿密な測量を実施して、面積を決定するような強行手段をとることはできなかった。従って、現地側の申告による決定、すなわち「指出(さしだし)」による方法をとるより他はなかったようである。それで検地といっても江戸時代のような厳密なものではなかった。
 鶴ケ島町内では、弘治元年(一五五五)に一斉に検地が行われたらしい。その年の干支(えと)が「乙卯(きのとう)」にあたるので「卯の検地」といわれる。
 御宿隼人佑
  廿六貫五百丗六文   入西卯検地辻(※1) 勝之内広野
  六郷殿        川越筋 卯検見辻(※2) 臑折
   廿貫文
 布施弾正左衛門
   八貫文        高麗郡 卯検見(※2) 藤金
 間宮豊前守
   廿壱貫五百六拾三文  入西郡 卯検地 富屋
   〔註〕
(1) 合計のこと。

(2) その年の豊凶を見て、その年の年貢額を定めること。ただしこの場合は、検地と同じ意味であろう。