後北条氏は、早雲以後、代替りや新領土獲得のときなどには検地を行い、課税の公平を期したが、弘治元年(一五五五)ごろにはいちおう検地による税制が確立したといわれる。
もっとも戦国大名の検地というのは、戦国争乱のさなかであるし、また、征服地にすぐさま検地を実施することは、農民の抵抗もさけられなかった。それで、のちの太閤検地のように、おびただしい検地役人を引連れて、現地に立入り、綿密な測量を実施して、面積を決定するような強行手段をとることはできなかった。従って、現地側の申告による決定、すなわち「指出(さしだし)」による方法をとるより他はなかったようである。それで検地といっても江戸時代のような厳密なものではなかった。
鶴ケ島町内では、弘治元年(一五五五)に一斉に検地が行われたらしい。その年の干支(えと)が「乙卯(きのとう)」にあたるので「卯の検地」といわれる。
御宿隼人佑
廿六貫五百丗六文 入西卯検地辻(※1) 勝之内広野
六郷殿 川越筋 卯検見辻(※2) 臑折
廿貫文
布施弾正左衛門
八貫文 高麗郡 卯検見(※2) 藤金
間宮豊前守
廿壱貫五百六拾三文 入西郡 卯検地 富屋
〔註〕
(1) 合計のこと。
(2) その年の豊凶を見て、その年の年貢額を定めること。ただしこの場合は、検地と同じ意味であろう。