A 苗字をもつ有力農民、これは地主であり、家父長的農業経営(※註2)をいとなむ。
B 単婚家族(※註3)の小経営の農民。
C 小経営を営むが、同時にA(有力農民)の小作人でもある。
D A(有力農民)の下人(家内奴隷)。
これら四つの階層の農民のうち、Aは半農半士的な農民(※註4)だといわれるが、当町内でも田中将監(しょうげん)・高沢三右衛門・平野甚右衛門・斎藤孫右衛門(以上脚折)、吉沢兵部(三ツ木)、内野図書(太田ヶ谷)、岸田正春、正信・信安(上広谷)、岸田内蔵之介、滝島内膳(五味ケ谷)などの有力農民があった。
彼らはかつて侍であったのだが、故あって土着したとか、帰農したとかという系図、あるいは由緒(ゆいしょ)をもっている。
そのような由緒をもつ農民は、町内および近隣で、次のような諸氏である。
太田ケ谷 内野図書(ずしょ)、鎌倉の落人で、主従十五人で太田ケ谷に落居した。没年文正(ぶんしょう)元年(一四六六)。
上広谷 岸田正春 弘治(こうじ)二年(一五五六)没。天文(てんぶん)一五年(一五四六)に川越で敗死した扇谷(おうぎがやつ)上杉朝定の子、和泉(いずみ)殿正春を迎えて、岸田家の家督養子とした。この正春は、関東管領上杉家の家臣で、川越夜戦で上杉勢が敗れたのを機会に、土着したことを示す。
脚折(すねおり) 平野氏 南北朝の頃、久米川合戦に敗れて、平野弥次郎は、脚折の民家に逃れた。
高沢氏 応仁(おうにん)の乱(※註5)(一四六七~七七)の落武者で、今に甲冑を伝えている。
高倉 小川氏 武蔵七党の児玉党の一派である浅羽下総守の家臣であったが、浅羽氏没落ののち、高倉村に土着した。
坂戸市塚崎 加藤氏 後北条氏の遺臣加藤景勝は、主家滅亡ののち荒地を開墾して、そのまま帰農した。当時は、このあたりはすべて原野で、天神原といった。(『風土記(※註6)』巻一七三・加藤家文書坂戸市教育委員会『坂戸風土記第一〇号』)
同 戸口 三田氏 小田原北条氏の川越城に属する小代官(※註7)であった。「正木棟別(むねべつ)麦」という年貢を、四月二八日に川越城へ相違なく届けるようにとの指令を受けた。(埼玉県立図書館『埼玉の中世文書』二二二号)
三田氏は西多摩郡辛垣(からがい)主三田弾正(だんじょう)(綱秀)の子孫だという。「祖父弾正少弼(ひつ)の遺訓により、海内不穏、願わくは子孫を民家へ隠し落し、時節をうかがうべしと、老臣野口刑部(ぎようぶ)の伜(せがれ)、弥兵衛尉(じよう)を相添え、幼少の子息三人、侍二人、主従(マゝ)七人、武州入間郡戸口の郷へ落し、長くこの地に居住す。子孫繁昌す」という由緒書をもつ(坂戸市教育委員会『坂戸風土記』第2号)。
同 小山 平田氏 八王子城主北条氏照に属していたが、川越城から非分なことを申しかけられて逃散した百姓どもを、至急帰村させるよう、指令を受けた。(『埼玉の中世文書』二二〇号)
また、平田が冤罪(えんざい)(無実の罪)で監禁されたので、北条氏照から、平田の直接の主人平山伊賀守へ釈放するように申しつけた書状がある。(『同書』二二一号)
同 厚川 高篠隼人(はやと)は児玉党の一派、浅羽氏の子孫であるが、浪々の身となって、秩父高篠に七代にわたって住んでいた。しかし元和(げんな)元年(一六一五)に厚川へ帰ってきたという。(鶴ケ島町教育委員会『むらびとの生活』41~42頁)
日高町大谷沢 金子大炊助(おおいのすけ)という武士が住んでいたが、慶長七年(一六〇二)には、三人の子息があり、他に百姓五人を加え、住民は九人であった。それが、二九年後の寛永(かんえい)八年(一六三一)には、百姓総数一七人となった、(「大谷沢根元伝記」)
同 平沢 小久保六右衛門尉は、小田原北条氏の御馬廻衆山角刑部左衛門の同心であるが、武功による褒美(ほうび)として、入西郡萱方(かやがた)拾貫文を賜わった。(『武州文書』一四高麗郡)
同 下高萩 島村氏 松山城の落武者が、当地を開墾したと伝える。(「家伝」)
坂戸市萱方(かやがた) 浅羽氏 萱方新田にある城跡(※註8)は、浅羽下総守が住んでいた所で、天正(てんしょう)一八年(一五九〇)小田原北条氏の滅亡とともに廃城になった。そのとき、下総守は小田原に籠(こも)り、その子右近は忍(おし)城で戦死し、左近は当所へ落ちてきたが、やがて下野の免鳥(※註9)へ落ちて行った。(『風土記』巻一七〇)
同 北浅羽 浅羽氏 永享(えいきょう)一一年(一四三九)の「永享の乱」に、当所の主(あるじ)、浅羽下野(総)守(※註10)・同左衛門などが鎌倉(※註11)で戦死し、その子孫は久しく流浪した。それよりはるか後、永禄(えいろく)七年(一五六四)当所に来て、しばらく住んでいたが、また子細(しさい)があって、下野国免鳥城へ行って住んだ。(『風土記』)
毛呂山町市場 山崎氏 浅羽右近は忍城で戦死したが、その子孫は鎌倉の山崎の里に住んだ。その後、故あって、武州入間郡市場村に移り、郷士となる。そして、山崎左京利常(※註12)と称した。(「山崎家系図」)
大井町 大井の四人衆 天正七年(一五七九)に、塩野庄左衛門尉(じょう)・新井帯刀(たてわき)・小林源左衛門尉・新井九郎左衛門尉の四人の百姓が、小田原北条氏から名主職(みょうしゅしき)を仰せつけられた。その名主としての役目は、「郷中を馳走(ちそう)(奔走(ほんそう))して、荒地の開発に尽力し、以て奉公の忠勤を致す」ことであった。(『埼玉の中世文書』二〇九号)
新座市片山 片山七騎(八騎) 片山村の地侍、根津・桜井・木村・小野・神谷・荒川・柘植(つげ)の七人は、徳川家康が関東御入国の節、取立てられて旗本となった。のちに田中が加わって八騎となった。(新座市教育委員会『郷土史新座』)
坂戸市石井 勝(勝呂)(すぐろ)氏 武蔵七党の村山党に属する須黒恒高・その子頼高の子孫が、「堀の内」に住んでいた。永禄の頃(一五五八~六九)に、豊前守(あるいは出雲守)が小田原北条氏に属していたが、北条氏が没落したので、上総国久留利(くるり)に行って里見家に仕えた。その後、里見家もまた滅亡したので、浪人となった。
その子、梅若・政成の兄弟は、天正一八年(一五九〇)、徳川家康に仕えて旗本となった。奈良奉行を勤めたが、兄は夭折(ようせつ)したので絶家となった。弟は御馬廻に抜擢され、その子孫は永く徳川家に仕えた。(『寛政重修諸家譜』)
同 塚越 勝呂氏 村山党 始祖の式部少弼重胤(ひつしげたね)は、貞和(じょうわ)年中(一三四五~四九)に、住吉神社の神職を勤めた。この神社は勝呂大宮とも呼ばれる大社であるが、それ以後、六三〇余年にわたって、同家が神職を勤めてきた。
〔註〕
(1) 小和田哲男『後北条領国化の農民諸階層』六一頁。
(2) 傍系家族・下人家族・請代下人・下女など、多数の奴隷家族をかかえて、農業をいとなむものの経営。
(3) 夫婦とその子供の小家族で、傍系を含まない。
(4) 木村礎『封建村落』三〇頁。
(5) 応仁の乱は直接関東に関係はないから、永享の乱(一四三八)ではないか。太田ケ谷の内野図書も鎌倉落人で、応仁の乱の前年、文正九年に没している。
(6) 『新編武蔵風土記稿』の略称。以下同じ。
(7) 「平時には郷内の民政をつかさどり、戦時には軍勢の催促にあたる」役人。
(8) 萱方と北浅羽とは、いずれも浅羽下総守の伝承をもつが、下総守と名乗る武将は二人あり、永享の乱に武州金沢の称名寺で自刃した下総守は北浅羽に住し、天正一八年に小田原に籠った下総守は萱方に住したことになる。ちなみに下野守とあるのは多分まちがいで、「永享記」その他合戦記には下総守となっている。
ともかく、北浅羽・萱方・市場には浅羽氏の一族が住んでいたことになる。その他にも、浅羽氏一族の系図をもつ家が、厚川・新堀・越生にある。
(9) 栃木県佐野市免鳥(めんどり) 永禄の頃(一五五八―六九)、佐野城に属する免鳥の砦(とりで)には、浅羽右近将監資岑(しょうげんすけみね)が在住した。また、天正一二年(一五八四)には、入間郡の浅羽甚内・友成兄弟が、北条氏照を案内した。(『関八州古戦録』)
天正九年(一五八一)四月、足利城主長尾顕長は、館林の浅羽左衛門・同甚内を免鳥城主に置いた。(『佐野市史』資料篇Ⅰ)
この資料を見ると、天正一八年の小田原落城以前から、浅羽氏一族が免鳥・館林に在住していたことになる。その浅羽氏は、天正一二年、北条氏照が太田金山城を攻撃の際、案内して戦略をめぐらしたというぐらい、土地や敵状を熟知していたのである。その点、北浅羽の浅羽氏がほとんど当地に留まらなかったことや、しばらく北浅羽に帰っていたが、最後に免鳥に行って住んだことから考えると、館林や免鳥で活躍した入間郡の浅羽氏というのは、北浅羽出身の可能性が強いと考えられる。萱方の浅羽右近はその浅羽氏を便って落ちて行ったのであろう。
(10) 浅羽下総守は「永享の乱」で武州金沢称名寺で自刃した。この乱は足利将軍義教(よしのり)と関東公方(くぼう)持氏との一族の対立が原因である。永享元年(一四二九)義教が六代将軍になると、持氏は事ごとに将軍に反抗した。それで、これを諫(いさ)める関東管領上杉憲実(のりざね)との間も不和となったので、永享一〇年、憲実は本国の上州に退隠した。持氏は憲実追討の軍を発した。これを機に将軍義教は諸将に出兵を命じ、箱根・足柄に持氏軍を破った。持氏は退いて、金沢称名寺にこもって謹慎した。この時、持氏に味方した浅羽下総守その他は、そこで自刃したが、持氏は剃髪して鎌倉の永安(ようあん)寺に移された。翌年二月、将軍義教は憲実に永安寺を囲ませたので、持氏は自殺した。
浅羽下総守は武州一揆の代表者で、持氏の信任が厚かったので、憲実方の憎しみは強かった。その時代、「入西一揆」と称する一派があったので、彼は恐らくその統率者であったのであろう。(『永享記』、『関東合戦記』)
(11) 鎌倉でなく、横浜市金沢区金沢町にある称名寺で自殺した。
以上述べたように、武蔵国の農村には帰農あるいは土着した侍の数は多く、恐らく各村々にその名をあげられるのであろう。しかし、ここではその全部を列挙することはできないので、今一つ、赤尾村の「六人の侍」について述べてみよう。