(赤尾村創設時代の入植者)
此古書、凡(およそ)を記したる物也。来歴審(つまびら)かならず。古き家に安田・田中・浅黒。此外天正・慶長の頃、大塚・兼子(金子か)等其外もあり。取るに足らざる所も見ゆ。
天文(てんぶん)七年(一五三八) 川越の東明寺(とうみょうじ)合戦(※註1)の後、侍六人が石井の台地に住んだ。
元亀(げんき)三年(一五七二) この六人は石井(※註2)の支配を逃れ、越辺(おっぺ)の川端へ移り住んだ。この時、相州小田原(※註3)の旗本太田左衛門尉持資(※註4)が、川越に城を築いて、当村を支配した。赤尾村(※註5)と名をつけ、六人の百姓に屋敷を差しおく。村高五〇石(貫か)の年貢をたてまつる。
安野・森田・林・池田・山崎・新井の六人である。
元亀四年(一五七三) 天正元年と改まる。今年、所々より移ってきた浪人が、芦野を開発して、大久保(マヽ)勘三郎殿が支配した。高百八〇石(貫か)の年貢をたてまつった。
天正(てんしょう)一八年(一五九〇) 小田原城が落城した。このとき、酒井河内守重忠が一万石で川越城主となった。
慶長(けいちょう)一四年(一六〇九) 川越城主は酒井讃岐守忠勝と替わる。この年から、元和(げんな)元年(一六一五)大坂落城までに、浪人六人が所々から移ってきた。
岡野・水沢・大沢・坂巻・浅見・大久保十郎左衛門
川越の支配を受け、百石の年貢をたてまつった。
寛永(かんえい)一二年(一六三五) 川越城主は堀田加賀守正盛へ替わる。
寛永一六年(一六三九) 川越城主は松平伊豆守へ替わる。村中御検地が改まった。そして村高九二五石四斗三升となった。そのうちの五分一(ママ)は旗本大久保勘三郎の知行地である。
元禄(げんろく)七年(一六九四) 川越城主は松平美濃守吉保へ替わる。
同 一二年(一六九九) 再び御検地が改まって(※註6)、持高一、二七〇石七斗五升五合となり、このとき村中残らず川越領となった。
この年、古来の屋敷持ちまで残らず御縄(検地)が改まった。その結果、今までは屋敷持ちが六軒だったのに、六九軒増えて七五軒となり、水帳(検地帳)に記載されることになった。この屋敷持ちの増加は、分地や其他あれこれによるものである。
村中屋敷持ち 本家二四軒
赤尾村
元禄十二己卯(一六九九)年
覚(※註7)
古高 九百廿五石四斗三升
元禄十二卯年御検地改り
出高 三百四十五石三斗二升五合増し
都合 千二百七十石七斗五升五合也
〔註〕
(1) 東明寺合戦は川越夜戦ともいう。厳島の戦・桶狭間の戦とともに日本三大夜戦の一つである。天文一四年(一五四五)一〇月から翌一五年四月までの六か月余、北条綱成の守る川越城は、扇谷上杉朝定・山内憲政および古河公方足利晴氏らの八万余の大軍に包囲された。北条氏康は天文一五年四月、分散していた馬廻衆八千余騎をかき集めて、北条氏綱の救援に向った。そして、四月二〇日の夜、突然、上杉軍に夜襲をかけた。油断していた上杉軍は、一〇対一というわずかな精兵にあわてふためいて大混乱となり、ついに扇谷朝定は二二歳の若さで戦死し、山内憲政は上州平井城に、足利晴氏は古河城に敗走するという、だらしない負け方をした(『相州兵乱記』)。松山城もこのさい落城した。
この戦いの年代は天文六年(『河越記』群書類従二一輯)・同七年(『甲陽軍鑑』教育社新書〈原本現代訳〉5)・同一三年(『相州兵乱記』)・天文一五年(『関八州古戦録』)とまちまちである。
東東明寺は川越市志多町の時宗の寺で、戦いは東明寺口で行われた。
(2) 石井の台地には、小田原北条氏に属する、土豪勝豊前(すぐろぶぜん)守がいた。
永禄四年(一五六一)北条氏康と武田信玄の連合軍五六、〇〇〇余騎が、上杉憲勝(のりかつ)の守る松山城を攻めたが、城兵固く守って落城せず、攻めあぐんた北条・武田軍は、和睦(わぼく)を申入れた。その使者となったのが地元の勝氏であった。「武蔵国住人勝式部少輔(ゆう)は、利発弁口の士で、しかも太田資正の旧知なれば、究竟(くつきよう)(非常に好都合)の者なりと…」(前掲『関八州古戦録』)
(3) 小田原北条氏のこと
(4) 川越城を築いた太田左衛門尉(じょう)持資(道灌)は(文明一八年(一四八六)に謀殺された。元亀三年(一五七二)から八十六年前のことである。それで、これは道灌の子孫二人のうちのいずれかとまちがっているのではないか。
太田源五郎資正(三楽斎) 道灌四代の孫。松山城主となること三度。武州松山・岩槻の両城主を兼ね、およそ九〇万石余を領した。(「太田家譜」『埼玉叢書』第四)天文七年の川越夜戦に上杉方として参戦したが敗北した。
太田大膳大夫氏資(資正嫡子) 父に背いて北条氏に属した。川越吉田郷・勝之内石井村半分(入間地方史研究会『小田原北条家分限帳』)を領していた。
この二人のうち、何れかをいっているのではないか。ちなみに、石井村の領主は、太田大膳亮の他に、北条氏の家臣豹徳軒が他の半分四十貫五百文を領していたので、勝氏は石井村の領主たる地位を失っていたことになる、
(5) 赤尾村の名は、鎌倉時代初期の承元四年(一二一〇)に書かれた「小代行平譲状」(永青文庫所蔵写による。)に、「みなみあかおのむら」と載っているので、元亀三年(一五七二)にさかのぼる三六二年前から、赤尾村の地名はあった。この年に初めて地名が生れたわけではない。
(6) 元禄一二年の再検地で、村高が九二五石余から、一、二七〇石余と、一挙に三四五石増加し、屋敷持ちも、六軒から七五軒へと、六九軒も増えている。
耕地の増加は、元禄頃までに盛んに開墾が行われたことを示し、屋敷持ちの増加は、零細農民が分地や開墾によって耕地保有量を増やし、一人前の百姓となったことをあらわすものである。この元禄十二年の検地によって、近世本百姓体制が赤尾村に成立したのである。
(7) この「覚」は、別の覚書より加えたものである。
以上列挙したように、江戸初期には各村々には、地侍の系譜をひく農民たちが住んでいた。これらの農民あるいはその祖先たちは、みな一様に関東管領あるいは小田原北条氏の家臣であったという伝承をもっている。