赤尾村には慶長二年(一五九七)の検地帳が保存されているが、その検地帳の由来を尋ねてみると次のようである。
小田原北条氏が滅亡して、徳川家康が関東七か国を豊臣秀吉から与えられたのは天正一八年(一五九〇)である。関東に入国した家康は早速、家臣の知行割すなわち家臣団の配置に着手し、次いで知行高を確定するため、知行の対象となる土地の生産力を把握することを目的とした検地を積極的に押し進めた。
この地方では、天正一八年(一五九〇)に川越に酒井河内守重忠が所領一万石で入城し、六年目の慶長二年(一五九七)には赤尾村の検地が行われた。そして、その結果をまとめて検地帳(土地台帳)が作成された。この検地帳のことを普通「水帳」という。
しかし、水帳は緊急を要するものであり、また基本的な台帳であるから、入城後六年目に始めて検地が施行されたとは思われない。鶴ケ島町上広谷では、天正二〇年(一五九二)・慶長一二年(一六〇七)の両度の水帳があったことを訴訟文書(『鶴ケ島町史』近世資料編Ⅳ村政三五号文書)は伝えているから、赤尾村にも慶長二年以前にも検地が行われたと推測されるが、その水帳は現存しない。それでも当地方唯一の、しかも最古の水帳である。
それで、この赤尾村の慶長水帳は、徳川幕府草創期における、当地方の農村の実状を解明する貴重な資料であるといえる。
赤尾村は当時は上赤尾村と下赤尾村の二つの村に分れていた。今、上赤尾村水帳を分析すると次のようになる。
上赤尾村の耕地は全部で六八町九反七畝余であり、内水田は三六町六反二畝余(五三%)、畠は三二町三反五畝余(四六%)で、田と畠の均分のとれた農村である。
その広大な耕地の大部分(九五%強)、すなわち水田三四町二反四畝余、畠三一町三反二畝余は、「分付主」となっている六人の百姓に所持されていた。この六人の百姓は、元亀三年(一五七二)に石井の支配を逃れて越辺(おっぺ)の川端へ移り住んだという六人の侍の一部であると考えられる、林・森田がそれである。彦四と新左衛門は苗字を書いてないのでよく分らないが、安野・池田・山崎・新井のいずれかであろう。大塚については「慶長の頃、大塚・兼(金)子その他もあり」と記してある六人の侍以外の百姓である。彼は地元に屋敷をもたず、手作地もないので在地の可能性はうすい。あるいは村を離れていずれかの領主の下臣となっているのではないか。将監(しょうかん)は武士らしい名前を名乗っているか、その屋敷は林分となっている通り、林家の血縁分家である。ただ大塚と一つの欄に書いていることが多いので、大塚と何らかの関係をもっていることを示唆している。安野・池田・山崎・新井については、その内の三人は、下赤尾村にも六人の分付主がいるので、そちらに本拠をおいているのであろう。
右のように慶長二年の上赤尾村には六人の百姓がいたが、農民はこの六人だけではない。他に分付百姓が七四人もいる(表―1)。彦四以下の六人は地主のような存在で、二一町九反四畝余(彦四)・一四町五反三畝余(新左衛門)・一〇町五反五畝余(将監)・四町一反九畝余(大塚)・一〇町三反二畝余(林)・四町余(森田)の広大な耕地を、地主が単独で耕作できるわけがない。地主も一部を手作経営をするが、耕地の大部分は分付百姓が請作していたのである。
表4-1 慶長二年上赤尾村分付主の土地保有状況 |
人名 田畠 | 田 | 畠 | 計 | 分付百姓 |
町反畝 歩 | 町反畝 歩 | 町反畝 歩 | 人 | |
彦四 | 九六〇・〇八 | 九二一・一七 | 二一九四・二五 | 五九 |
永ふ三一三・〇〇 | (主1) | |||
新左衛門 | 六五四・一三 | 七九九・〇四 | 一四五三・一七 | 五八 |
将監 | 六七二・〇八 | 三八三・〇六 | 一〇五五・一四 | 四二 |
(主1) | ||||
大塚 | 二〇五・二一 | 二一三・二八 | 四一九・一九 | 二七 |
(主3) | ||||
林 | 二一七・二九 | 八一四・一六 | 一〇三二・一五 | 四〇 |
(主3) | ||||
森田 | 四〇〇・一九 | 〇 | 四〇〇・一九 | 一四 |
※散田 | 二三七・二九 | 二三七・二九 | 散田百姓 | |
一六 | ||||
屋敷 | 一〇三・〇九 | 一〇三・〇九 | 二十二軒 | |
他二か寺 | ||||
町反畝 歩 | 町反畝 歩 | 町反畝 歩 | ||
計 | 三六六二・〇七 | 三二三五・二〇 | 六八九七・二七 |
※散田とは、川辺などにあって、水害のため、普通の貢租を納める耕地の外にある土地で、僅かな貢租を負担する。 |
分付百姓の数は、彦四の分付五九人、新左衛門五八人、将監四二人、大塚二七人、林四〇人、森田一四人、総計二四〇人である。もっとも、一人の分付百姓が二人あるいは三人の地主の分付百姓となっており、実数は一〇二人であるが、下赤尾村や他村の者を差引くと七八人となる。その内には、分付主でありながら、他人の分付百姓となっているものが四人もおり、純粋の分付百姓は七四人となる。
そうすると、上赤尾村では、六五町五反六畝余の広大な耕地を六人の分付主が保有し、その内、地主手作分一〇町七畝を除く五五町四反九畝を七四人の百姓が請作していたことになる。もっとも、劣悪な水田である散田(さんでん)二町三反七畝余は一六人の百姓が保有している。これは近代的な考え方をすると、六人の地主が耕地の九六%を所有し、他の七四人の百姓が残りの四パーセントを所有することになる。
こういう状況は下赤尾村でも同様である。大学・彦四・若狭・藤右衛門・兵部・四郎右衛門の六人の分付主がいた。彼らは、上赤尾村に本拠をもたない安野・池田・山崎・新井の内の三人と、元和元年(一六一五)大坂城落城までに移ってきた六人の浪人の内の三人だろうと推測される。
下赤尾村の検地帳は田の部分だけが残存し、畠の分は失われている。しかし田の分も欠損甚しく完全な分折は困難であるが、大凡(よそ)の計算をしてみたい。
田の面積は四五町五反二畝余であるが、検地帳面では三七町九反八畝余しか検出できない。七町五反四畝余の分が欠けている。六人の分付主の土地保有状況および分付百姓数は表―2の通りである。
表4-2 下赤尾村分付主の保有耕地と主作 |
慶長二年(1597)二月五日 |
分付主 | 田 | 主作 | 分付百姓 |
町反畝 歩 | 町反畝 歩 | ||
1 4 3,14 | |||
大学 | 8 3 8,13 | (藤右衛門分) | 13人 |
4 7,14 | |||
彦四 | 7 1 9,14 | (1 8,20) | 9 |
若狭 | 6 6 2,27 | 5 9,18 | 12 |
藤右衛門 | 6 3 8,03 | 1 6 1,01 | 5 |
兵部 | 6 1 3,16 | 1 2 9,24 | 16 |
四郎右衛門 | (3 2 5,22) | (3 1,04) | 12 |
計 | (37 9 8,10) | (5 4 3,21) | 67 |
1. 欠頁のため、畑・屋敷の記入を欠く 2. ( )一部不明 3. 分付百姓の実数は48人 |