これまで赤尾村の慶長(けいちょう)二年の検地帳について述べたが、これは関東に入封したばかりの徳川氏による検地である。徳川氏はこの新領土に対して、いかなる方針で、また方法で検地を行ったのであろうか。それを調べることにしよう。
徳川家康が、天正(てんしょう)一八年(一五九〇)に関東に移封後、早速検地を開始したが、それは徳川氏独特のものではなく、世にいわゆる「太閤検地」に準拠したものである。太閤とはもちろん豊臣秀吉のことである。秀吉は領地を占領拡張していくごとに、新領地の検地を行った。そして検地を重ねていくうちに、一定の方式を編み出していった。その方式がどんなものであったかは次に述べることにして、秀吉の全国統一とともに、その検地方式もまた全国的のものとなった。それで、関東の一地方大名にすぎなかった家康も、その方式に従ったのである。
それでは太閤検地とは如何なる検地であったか。