(一) 隠田(かくしだ)をなくし、屋敷・田畠・山林など、すべての土地を測量して、それを石高(こくだか)(※註1)に結び、年貢負担地とした。
(二) 一地一作人 名(みょう)(※註2)を基準とした複雑な荘園制的な年貢収納の組織を整理し、一地一作人(一つの耕地に一人の耕作者=年貢負担者)の原則を確立する。
(三) 一職(しき)支配 中世には領主―名主(みょうしゅ)(※註3)―作人の順に、それぞれ土地に対する職(しき)(※註4)(権利)をもち、いわば重層的な土地所有関係になっていた。それが戦国時代に変化して、領主が名主にその権利を売却し、土地に対する権利は、名主と作人の二人だけの関係になっていた。これを「一職支配」の成立という。このような体制の成立した現状を踏まえて、太閤検地は、直接生産者である小百姓を耕地保有者とし、地主である名主から自立させた。
(四) 小百姓の自立=名請(なうけ)人 当時、ほんらい畠地だけを耕作していた農民が、少しずつ田の保有をも獲得してゆき、やがて屋敷地をも買取るという、小百姓の自立の動きが進んでいた。その動きが進んでゆくと、小百姓自立の結果がついに家父制的地主(※註5)を没落させることになる。太閤検地は畿内やその周辺の先進地帯における、こういう小百姓自立の動きを的確につかんで、名請農民(検地帳登録人=年貢納入の責任者)にしたのである。それで太閤検地は、小百姓自立の現実に沿って実施されたのである。
(五) 作合(さくあい)否定 土豪の作合(中間搾取=小作料)を排除し、武士化した土豪のもとに隷属していた下人、被官百姓(※註6)・門屋(※註7)・小作人などを名請人として、自立農民とした。
これは地主小作関係を認めないのだから、直接生産者である小百姓は、自分の再生産に必要な最小限度を除いて、残りの生産物はすべて年貢として領主に微収される仕組みである。これを全剰余労働搾取の原則という。
(六) 村切り 荘・郷(ごう)・村の重層的な区分を廃して、村を単位として、地域と住民を確定する。すなわち「村切り」を実施する。そして村高(※註8)を定め、年貢(※註9)は村請制とする。
(七) 石高と軍役 検地帳で確定した石高を大名―家臣の知行地として給付する。そして家臣団を編成し、彼らに軍役を課するという体制を作る。