(一)六尺三寸を一間として、三〇〇歩を一反と定める。これまでは三六〇歩が一反であったし、一間の長さも必ずしも一定していなかった。
(二)田畑の良否によって上中下の階等をつけ、その斗代(石盛(※註10))を測定して、その田畠の石高を定めた。上田斗代一八といえば、上質の田の反当生産高を米一石八斗と査定したことになる。
(三)口米(くちまい)(※註11)の量を、一石につき二升ずつとした。そしてそれ以外の雑税は取ってはならぬことにした。
(四)これまでまちまちであった枡を、京枡に統一した。
(五)租米の輸送の費用は、五里まではその租米を納める農民が負担し、五里以上の場合は代官が負担する。
以上の方針のもとに、一定の規準に従って全国的規模で検地が施行された。そしてこの太閤検地は、日本の土地制度史上で革命的ともいわれる大改革であった。