秀吉は天下統一のため、また後には朝鮮侵略のため、多くの経費を必要としたので、年貢搾取を強化する方策を立てた。そのためには、年貢賦課を逃れた隠田や、新開の土地もすべて検地帳に載せ、年貢賦課の対象とする必要があった。
年貢収納は、給人(※註1)と百姓の立会いのもとで検見(※註2)を行い、三分二を給人が取り、残る三分一を百姓の取分とするのが根本原則であった。それは収穫の七割近くを年貢として納めることになるので、百姓にとってはまことに苛酷な税制といわねばならない。しかし半面この税制は、戦国大名や荘園領主がひろく賦課していた雑多な現物収取を一切廃止し、わずかに米一石に二升の口米を追加するに止めたうえ、給人の乱暴な恣意的(気ままな)収奪は一切禁止されたから、実際の農民の負担は必ずしも強化されたとは言い切れなかった。そして夫役の方は、在地の給人が自分の農業経営のために賦課した農耕夫役も廃止された。