第三節 検地と反抗

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 以上の方針で、太閤検地が施行されたが、秀吉の検地に対する決意は、天正一八年(一五九〇)八月、陸奥(むつ)・出羽(でわ)の検地にさいして、検地奉行の浅野長政に対する次の指示によって知られる。
検地に関して指示した趣は、国人(こくにん)在地領主ならびに百姓どもに納得のいくように申し聞かせよ。しかし命令に服従しない者があらば、それが城主であればその城へ追い入れ、一人も残らずなで切りにすべし。百姓以下に至るまで服従しない者は、一郷(ごう)も二郷もことごとくなで切りにすべし。六十余州きびしく検地を行ったのであるから、出羽・陸奥だけをゆるがせにするな。たとえ亡所(もうしょ)(無住の地)になっても構わない。山の奥、海は艪櫂(ろかい)のつづく限り、入念に検地を行え。(「浅野家文書」)

 このような徹底した強行方針は、当然のことながら検地に対する大きな抵抗をひき起した。太閤検地がこれまでの慣行、国人や土豪層の既得権を打破し、農民の徹底した搾取を実現するためのものであったから、国人から農民に至るまでの激しい抵抗にあった。
 「一地一作人」・「作合否定」・「年貢直納」などの一連の政策は、今まで隷属していた小百姓の自立を促し、村落の君主ともいうべき土豪が転落して、一介の農民と肩を並べることとなる。こうなると、土豪層の営む家父長制農業経営はその基盤を失って崩壊せざるをえなくなる。
 一方、農民、ことに後進地の農民は、生産力が極めて低かったため、小農が自立し得る状態ではなかった。それで家父長制地主たる土豪の庇護なしには生存できなかった。彼らは土豪層とは何ら矛盾対立の関係にはなく、いわば相互依存の状態であった。彼らは隠田を摘発され新開の耕地までもことごとく検地帳に記載され、年貢徴収の対象となった。その年貢がまた収穫物の七割近くを上納せねばならぬ。怨嗟(えんさ)の声は当然あがった。
 そうして、太閤検地は、国人・土豪層から小百姓に至るまでの連合のもとで、激しい抵抗にあった。かくして、農民や地侍の一揆が次々と各地に起った。それを一つひとつ鎮圧して、検地を強行した。