内外の状勢

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天正一八年(一五九〇)、徳川家康は関東に移封したが、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原決戦で終結するまでの軍事的緊張が外に迫っており、内部には小田原北条氏の残党が、あるいは都市に集注し、あるいは農村に散在して、不平と絶望の日々を送っていた。彼らは何時叛乱を起すか分らない。内外ともに一触即発の危機が迫っていた。それに対処するためには、太閤検地の基本方針も、その完全実施は機運の生れるまで待つのが得策である。こうした政治的配慮の上で、太閤検地は、現地の事情に即応する形で行われたのである。