第五節 分付記載

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 慶長二年の上赤尾村検地帳には次のように記載されている。
しまい(島合) 下田 五畝廿五歩 彦四分 ぬいの助

 この場合、「彦四分」とあるのは、彦四(郎)が分付主であり、ぬいの助は彦四のもつ下田の分付百姓であるということである。
 分付主は耕地の保有者であり、分付百姓はその耕地の直接生産者として耕作権をもつ百姓である。そうすると、一つの耕地に二つの権利が、公の帳簿である検地帳に重なって記載されたことになる。「一職(しき)支配」・「一地一作人」は太閤検地の原則である。それが無視されて、なぜこのようなことが検地帳に記載されるようになったのであろうか。
 実は、この記載事実は、戦国時代(関東では小田原北条時代)における関東農村の土地保有と耕作関係の状況をそのままに反映したものである。小田原北条時代には、上赤尾村では、六人の侍が耕地の九六%(六七町九反四畝余)を保有し、他の百姓はその耕地の請作(のちの小作)をしていたのである。
 そういう戦国末期の農村へ、後進地の実状を無視して、農村社会の構造を破壊する急進的な太閤検地が、全国一律に強行されると、その基本方針は「一地一作人」・「作合否定」・「年貢直納」である。その一連の施策の結果は「小農の自立」である。また、「刀狩り」とならんで「兵農分離」が行われる。六人の侍も赤尾村に土着している限りは、刀を捨てて純粋の百姓とならねばならぬ。近世の武士化への道は今や閉ざされてしまったのである。
 しかし徳川政権は、急進策を強行することなく、内外の軍事的、政治的危機や経済の後進性を考慮して、妥協策を取ったことは上述した。こうして生れたのが分付制度である。