[[近世初期の農業経営]]

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 上赤尾村の検地帳名請人の耕地面積については表―3で示した通りであるが、この耕地面積の差はいかなる農業経営として現われるのであろうか。次に述べてみたい。名請人の耕作反別は、一町歩以上、三町歩までの農業経営者は二二名で村内全農民の二一パーセントを占めている。一町歩以下は七九パーセントで、そのうち三反以上・五反未満が三〇パーセント、三反以下が四九パーセントである。その中でも、連長・甚助・きく・ちか・七郎右衛門の五名は、田畠合せてわずか一畝以下の零細耕地にしがみつくようにして暮している。
 村内のわずか二一パーセントしかない一町歩以上の耕地をもつ農民は、自立経営で再生産が可能だといわれているが、彼らはどんな形で農業を経営しているのであろう。これに反し、村民の大部分七九パーセントに達する零細経営者は自立再生産はとうてい不可能だとされるが、彼らの生活はどうなっているのだろうか。
 この疑問に答えるに先立ち、太閤検地施行の前段階の中世の農業はどんな形態で経営され、それがどう移り変ったかを調べてみたい。それは、前述のように、後進地の太閤検地は、中世末の農業経営の反映であって、中世的なものが残存する場合が多いからである。
表4-4 上赤尾村 名請人経営反別
慶長二年(1597)
反別3町0反~5町0反2町0反~3町0反1町0反~2町0反5反~1町0反3反~5反1反~3反1反~0反
名請人
村内141718142429107
屋敷持310824128
無屋敷1171012202879
村外279
22(21%)32(30%)54(49%)
備考 ① 屋敷地は2か寺を含む
   ② 屋敷地28戸の内 3戸 新左衛門分
             1戸 林分
   ③ 無屋敷79人の内
     林・新左衛門は屋敷免か。(役職による免税)