北条氏領国下の農民の諸階層

282 ~ 283
 (小田原氏上町分検地帳)
名請農民七二名

①一町以上の階層 一一名(一五%)自立で再生産可能

②残り六一名 単婚小家族での自立再生産は不可能

③三反以下の経営をする名請農民 全体の半分以上の農民で、自立して再生産はとうてい不可能。(小和田哲男『後北条氏領国下の農民諸階層』)

 要するに、広汎に小農民が存在して、単婚小家族の小経営が圧倒的に多かったのである。上赤尾村の場合は、全農民一〇七名のうち、一町以上の階層は二二名(二一%)で、一町未満は八五名(七九%)であり、うち三反以下は五三名(四九%)を数え、自立再生産の不可能な農民が圧倒的に多いのは、この村と同様である。
 今一つ、この町に近い狭山市柏原の例を挙げる。天正一九年(一五九一)五月の検地帳によると、帳付けされた百姓は一〇人である。分付百姓は記載されていないので、この一〇人は在地の土豪百姓が年貢負担者として、小田原北条時代そのまま帳付けされていた。その下に隷属する直接生産者が多数いたのだが、この段階ではいまだ徳川氏の権力によって把握されていなかった。
 次の検地は元和七年(一六二一)一一月であるが、その段階では分付記載がみられるようになっている。表―5にみるように、分付主は八人、分付百姓は延べ八人である。その内、内膳の分付は、総反別の約八割、分付百姓総数八八人のうち七七人を占めている。
表4-5 柏原村(元和7年)分付主
分付主分付反別分付百姓
町反畝 歩
内膳26 4 3.1172(2)
新右衛門1 8 3.206 
源左衛門1 5 3.0713(1)
五郎兵衛1 5 2.0015 
与左衛門1 2 2.225(1)
新三郎9 2.109 
源七郎4 7.263 
九郎兵衛4.272 
計8人33 9 8.0288(3)
(注)田畑のみ。
   ( )内は寺院

 こうして柏原村の社会構成は上赤尾村の六人の侍による耕地・分付百姓の保有状態とともに、同じ時代的性格を表わしているといえるであろう。
 同様な状況は、旧高麗村に属する各村落の検地帳でも見られるが、あまり煩雑の故に省略する。