表4-6 上赤尾村 分付主の手作経営 |
慶応二年(1597) |
田畠 | 田 | 内 他の分付分 | 畠 | 内 他の分付分 | 計 | 分付百姓請作分 | |
人名 | |||||||
町反畝 歩 | 町反畝 歩 | 町反畝 歩 | 町反畝 歩 | 町反畝 歩 | 町反畝 歩 | ||
彦四 | 七四・〇二 | 〇 | 六〇・〇八 | 〇 | 一三四・一〇 | 二〇六〇・一五 | |
新左衛門 | 一七一・二八 | 〇 | 一四四・〇四 | 彦四分四六・二〇 | 三一六・〇二 | 一一九七・〇九 | |
林分 一三・〇一 | |||||||
将監 | 一三四・二三 | 大塚分一五・二六 | 一三四・二四 | 林分 九一・〇八 | 二六九・一七 | 一五〇・二一 | |
大塚分一一・一二 | |||||||
大塚 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | |
林 | 四九・〇七 | 〇 | 一一四・〇九 | 大塚分 | 一六四・一六 | 一五六・〇二 | |
森田 | 一一六・〇五 | 〇 | 六四・二五 | 大塚分 九・一八 | 一九〇・〇〇 | 二八四・一四 | |
将監分三八・〇九 | |||||||
林分 一六・二八 | |||||||
合計 | 一〇〇七・一〇 | 三八九九・〇七 |
しかし、それを説明するような資料は何一つ残っていない。またこのことは全国的にも資料がないことは、『日本農業技術史』の著者古島敏雄氏も次のように述べている。「この時代(江戸初期)の一般的な個別農業生産の形態については、個々の具体的資料に基づく研究はできていない。今日利用しうるところは農書・地方(じかた)書の記すところの典型としてのそれである。」
私も古島氏の例にならい、農書の記すところによって、その時代の典型としての農業経営を記してみよう。
A松浦宗案「清良記(※註1)」(『親民鑑月集』第七巻)
寛永六年(一六二九)から延宝四年(一六七六)の間に成立した農書である。伊予宇和郡の豪族土居清良の家臣松浦宗案が、清良の諮問に答えた形で書かれている。わが国最古の農書であり、戦国末期~近世初頭の農業の実状を伝えているといわれる。一領具足(ぐそく)(※註2)という侍(郷士)一人分の領地、水田一町・畑二反五畝の耕地面積を経営する所要労力は表―7の示す通りである。
表4-7 耕作所要労力表 |
耕作別 | 作付面積 | 反当所要労力 | 延労力 | |
水田 | 反 | 人 | 人 | |
二毛作田 | 3.0 | 25 | 75 | |
一毛作田Ⅰ | 3.0 | 33 | 99 | |
一毛作田Ⅱ | 3.0 | 27 | 81 | |
山田 | 1.0 | 38 | 38 | |
計 | 10.0 | - | 293 | |
畑地 | 麦(水田裏作) | 3.0 | 22 | 66 |
畑Ⅰ(表作共) | 1.0 | 25 | 25 | |
畑Ⅱ | 1.0 | 50 | 50 | |
畑Ⅲ | 0.5 | 30 | 15 | |
計 | 2.5 | - | 156 | |
養蚕 | - | - | 20 | |
燃料 | - | - | 120 | |
牛鳥飼育 | - | - | 120 | |
肥料用草刈 | - | - | 40 | |
家修理 | - | - | 20 | |
用水路整備 | - | - | 20 | |
農具整備 | - | - | 22 | |
総計 | - | - | 811 |
古島敏雄『日本農学史』第一巻 |
所要労力八一一人のなかに女手間は省かれている。他に牛馬各一頭を飼育している。
水田に限っていえば、現代の面積に換算して、一反当り男女合せて三七人七分となり、所要労力の少ない二毛作田では三四人一分である(※註3)。
B著者不明「豊年税書」(『日本経済叢書』第一巻)
貞享二年(一六八五)の著述であるが、これも日本最古の農書の一つである。著者は不明である。ただ貨幣経済の色彩の乏しい関東ないし東北型農村のことを述べたといわれる(※註3)。
同書の述べる経営規模と所要労力は次の通りである。
①水田五反・畑五反の計一町歩
所要労力 四人(二人は年傭)と馬一匹
②二町歩 八人ないし九人
③三町歩 一二人
C大畑才蔵「地方(じかた)の聞書」(才蔵記)(※註4)
元禄年間(一六八八~一七〇三)、紀州の事情を述べたものであるが、「豊年税書」の例に比べて、商業的色彩の強い畿内の農業経営を述べている。
水田二町 畑五反 家族一〇人
所要労力 自家労力 男二 女一
年傭 男四 女一
計 男六 女二
なお武蔵国の二例を挙げる。
慶長一四年(一六〇九)の武州幡羅(はたら)郡八木田村(大里郡妻沼町八木田)の検地帳によると、村役人主税助(ちからのすけ)は手作五町五反二畝、二六人の分付百姓控地七町六反一畝七歩、合計一三町一反一畝二四歩を保有する豪農である。この五町五反二畝の手作地は、村役人の地位にあるものの家族労働だけで経営できる面積ではない。分付百姓が二六人もいることを考えると、その労働力は彼らの夫役(ぶやく)労働によるものであろう(※註5)。
次に『横浜市史』第一巻によれば、江戸前期には耕作面積は四町歩が限度である。四町歩の経営には、少なくとも一〇人に及ぶ下人と、夫役労働が必要である。
以上、当時の農業経営の規模と、それに対応する所要労働力を調べるに当り、当地方に資料がないため、代表的な農書による典型的な所要労働力と、八木田村および横浜の事例を列挙した。
農民が再生産するために必要な経営規模は一町歩を最低限とする。上赤尾村では、一町歩以上の経営者は、分付主の五人を含む二二人である。この村民の二一パーセントを占める百姓は自立して再生産できる身分であるが、その農業経営は、二人ないし三人の家族労働力の他に、なお多くの夫役労働力を必要とすることが多くの例によって分かった。それでは、彼らに夫役労働を提供するのは、いかなる階層に属する農民であろうか。