第三節 無屋敷農民

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 上赤尾村には、村外からの入作者を除き、村内の百姓一〇七名のうち、屋敷を登録されているもの二八名で、他の七九名は屋敷を登録されていない。これは村民の二六パーセントが屋敷をもつのに対し、七四パーセントが屋敷をもたないことになる。実に四分三の百姓が無屋敷である。もっとも分付地一四町五反三畝余をもつ新左衛門、一〇町三反二畝余の林が屋敷を登録されてないのは、おそらく彼らは村役人の地位にあり、その役得として、屋敷が免税となっているのであろう。
 その他の無屋敷農民の多くは、五反以下の零細農民である。彼らは屋敷地登録人の次三男・兄弟・親(隠居)・門屋等である。そしてその家長ないし主家の屋敷地の別棟に住んでいたので、一軒の屋敷持として認められなかったのである。彼らはかつては家長ないし主家の耕作や雑用に使用されて隷属的な生活を送っていたが、次第に自立性を強めて、その耕作地に対する耕作権をもつようになった。しかしその耕作地に対してなお上級の権利をもつ家長・主家に対し、夫役(ぶやく)を納めながら、その耕作権を社会的に認められるようになった新興農民である。こうして無屋敷農民も自分の経営をもつ限りでは、屋敷持農民と同時に、太閤検地で登録されるようになったのである。しかし屋敷持農民は、屋敷地をもつ限り、その村では百姓の身分に差別があった。年貢の上納や、村落の行事等では、その責任者は屋敷持で、無屋敷農民は一軒前の百姓とは認められなかった。
 なお、屋敷持農民の次三男あるいは隠居などが農地の耕作権をもつに至ったことは、本家から耕地を分けられたことの結果である。このような分地は小農民自立の基本的条件であるから、領主側の政策としてもこれを推進したのであるが、幕府は寛文一三年(一六七三)「分地制限令」を出して抑制した。当時は分地が盛ん行われて「田分け」(呆(たわ)け)といわれる程であった。それでこれ以上に分地が行われるようになると、次第に農民担税力が減退するのを恐れたからであった。
   〔註〕
(1) 『日本農書全集』10

(2) 日頃は農業に従事し、戦いのときは馬を連れ武器を持って馳せ参ずる。これは兵農が分離しない時代の一般的な上農であった。(平沢清人『近世村落への移行と兵農分離』)

(3) 古島敏遂『日本農学史』第一巻

(4) 大畑才蔵「地方の聞書」『日本農書全集』28(「才蔵記」ともいう)

(5) 古島敏雄『近世日本農業の構造』