脚折村は、天正一八年(一五九〇)の家康の関東入国直後に幕府直轄領(御料)とされ、寛永一六年(一六三九)に川越領となって松平伊豆守信綱が領知するまで、四九年間は代官が支配した。この村では寛永一六年以前に検地が行われたかどうかについては、資料となる記録がないため明確な判断はできないが、多分行われたであろうと推察される。それは、上広谷村の訴訟文書(前出)を見ると、天正二〇年(一五九二)と慶長一二年(一六〇七)の両度に検地帳が作製されたと記してあるからである。同じく幕府直轄領であり、代官に支配されていた脚折村でも、同時に検地が施行されたであろう。もっとも上広谷にも検地帳は残っていない。それで、脚折村の寛永名寄帳は、慶長一二年の検地に基づいて作製されたものと思われる。