脚折村寛永名寄帳の性格

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この名寄帳の作製された寛永五年には、脚折村は幕府の直轄領であり、代官が一円支配したはずである。従って他に相給はなかったはずである。そこで幾多の疑問が起ってくる。
 第一の疑問は、登録農民の数の問題である。総数四七名が登録されているが、これよりわずか二〇年後の慶安元年(一六四八)の水帳には六四名となっている。通説によれば、名寄帳には納税責任者だけが登録され、村民のすべてではない。登録されない小百姓は本家あるいは主家に隷属する身分のものであるとされた(註3)。しかし、この名寄帳登録者四七名のうち、屋敷をもつもの二一名、無屋敷二六名である。保有耕地についても、四七名中、五パーセントに当る三五名が一町未満であり、その内五名も一反以下の水呑層がいる。それをみると彼らが自立自営農民であり、他人の年貢を合せて上納する身分のものとは考え難い。
 第二に、耕地総面積を、慶安元年の水帳のそれと比較すると次のようになる。
 慶安元年(一六四八)水帳の耕地面積
田一九町八反八畝〇二歩 畑六一町三反三畝〇八歩 合八一町二反一畝一〇歩

※入田八反三畝一六歩  畑九反八畝二三歩    合一町八反二畝九歩

入(※)を引いた面積

田一九町四畝一六歩 畑六〇町三反四畝一五歩 合七九町三反九畝〇一歩

 寛永五年名寄帳面積
田九町二反八畝九歩 畑一八町二反二二歩 合二七町四反九畝〇一歩

(差引)田九町七反六畝〇七歩 畑四二町一反三畝二三歩 合五一町〇九反

※ 入とは検地後に開発したり、あるいは本田畑に隣接する耕地が小畝歩のため合併したもの

 この計算によると、寛永五年名寄帳と慶安元年水帳の面積を比較すると、「入」を除いて五一町九反余の違いがある。三分一に近い面積である。
 また、寛永頃の生産高を示すという『武蔵田園簿』(※註4)には、高三九八石三升五合(田一四九石二斗四升余・畑二四八石七斗九升余)と記載されている。今、寛永名寄帳の田の面積を基準にして、脚折村の石盛(※註5)を乗じて村高を計算すると、田の石高は七五石八斗余となる。半数近い村高である。この計算によっても、寛永名寄帳の耕地面積は、脚折村の全耕地の面積を示すものではない。
 第三に、名主田中七兵衛の保有耕地は田畑三町余であるが、慶安元年の水帳には、その子とみられる名主田中将監の耕地は五町四反余と急増している。また、後年に相名主となった高沢三右衛門は屋敷地を三畝九歩を保有するのに、田をもたず、中畑をわずか九畝二四歩保有するにすぎない。他の登録人たちについても、前述のように、極端な両極分解をしており、勘介、善正・成泉院の如きは田畑をもたず、屋敷地だけを登録されている。このような登録者が他人の納税責任者だとは思われない。
 第四に、屋敷をもつ農民二一名に対し、屋敷なき農民は二六名である。無屋敷零細農民は村では一軒前の百姓とは認められないから、彼らは領主に直結する本百姓とは考えられない。このように、多くの無屋敷零細農民までも記載されたのは、この名寄帳が、本来の名寄帳とは別の意図をもって作製されたからであろう。
 要するに、この名寄帳は納税者を記載したにはちがいないが、村の高持や耕地のすべて、あるいは納税責任者だけを登録したのではない。そうすると、どういう意図を以て作製されたのか、他に資料がないので断定はできない。しかしおそらく名主田中七兵衛の分付百姓あるいはその系統を引く年貢負担者の名を記載して、納税責任者七兵衛が年貢徴収の便に供したものであろう。