第二節 広谷村の水帳と名寄帳

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 この水帳と名寄帳は、寛永一六年(一六三九)に旗本横田次郎兵衛の知行分を対象に検地が行われ、それをもとにして作製されたものである。その検地の施行は次のような事情によるものと思われる。
 川越藩主堀田正盛(一〇万石)が寛永一五年に信州松本へ転封となり、そのあとへ、翌一六年、忍(おし)城主松平伊豆守信綱が移ってきた。高は六万石である。広谷村は川越城下から八キロ離れており、一〇万石のあとへ六万石の大名が移ってきたため、村は分割されて、次のように大名・旗本の入組地となった。
  (大名)松平伊豆守信綱 三六六石
  (旗本)馬場太郎兵衛  二〇〇石
  (同)横田次郎兵衛   一二石五斗
  (同)横田甚右衛門   一二石五斗
                  (『武蔵田園簿』慶安二年)
 このさい横田氏の知行地を確定するために、同年六月四日に検地が行われたものであろう。もっとも、この帳簿は次郎兵衛家だけの知行分で、分米(石高)二二石余であるから、『武蔵田園簿』の記す横田氏両家の分割知行となる以前の段階のものである。
 広谷村は、もとは上下・五味ケ谷の区分はなく、一村であった。慶安元年(一六四八)分裂して三か村となった。寛永十六年は分裂以前である。(風土記)
 横田次郎兵衛の知行地は、在家・在家前・あかつち・清水窪・花の木・長竹・はんだ・椿山・ちこかいと、の九つの小字であった。
 この検地帳の登録者は一〇名であるが、藤右衛門・長右衛門・次郎右衛門の三人は、分付主であり、また農業経営者でもある。兵三郎・半三郎・喜右衛門・杢(もく)右衛門・喜左衛門・三蔵の六名は長右衛門の分付百姓であり、作十郎だけが次郎右衛門の分付百姓である。先に上赤尾村の検地帳で見た分付記載が、ここでは寛永期に至ってもなお残存している。従って、分付主と分付百姓との関係も解消していないわけである。
 屋敷地をもつ者は長右衛門ただ一人で、他はみんな無屋敷である(表―10)。しかし、藤右衛門(※註6)・次郎右衛門については、一町三反三畝余(藤右衛門)・一町一反六畝余(次郎右衛門)の耕地を保持し、本百姓とみなしてよいから、他の領主・地頭の百姓であり、次郎兵衛知行地以外の土地に屋敷地をもっていたものと考えられる。
表4-10 広谷村田畑屋敷水帳 寛永十六年四月
No.分村主上田中田下田上畑中畑下畑田畑合屋敷
反畝 歩反畝 歩反畝 歩反畝 歩反畝 歩反畝 歩町反畝 歩畝 歩
1藤右衛門8 7.114 6.021 3 3.23
2長右衛門1.263 8.082 7.003 7.241 8.061 2 3.043.22
3次(二)郎右衛門3 9.221 9.223 5.199 5.03
4兵三郎長右衛門1 0.001 3.104 7.017 0.11
5半三郎長右衛門1 8.092 5.256.215 0.25
6喜右衛門長右衛門3 2.003 2.00
7作十郎次郎右衛門2 1.142 1.14
8杢右衛門長右衛門6.026.02
9喜左衛門長右衛門4.234.23
10三蔵長右衛門0.240.24
3 9.221 3 1.171 2 9.295 8.191 1 0.206 7.275 3 8.093.22
案内 長右衛門

 兵三郎(七反余)・半三郎(五反余)は辛うじて自立再生産のできる分付地を保有しているが、喜右衛門・作十郎・杢(もく)右衛門・喜左衛門・三蔵の五名は、いずれも三反以下の田畑を耕作しているにすぎないから、とうてい自立再生産のできるはずはない。彼らは分付主に隷属して、夫役(ぶやく)を提供する小百姓であった。それで彼らは一人前の百姓でないから屋敷地をもてないのである。もっとも、この検地帳も名寄帳も広谷村三給のうちの旗本横田家の支配地だけであり、三給分が揃って初めて確実なことがいえるわけである。