広谷村田畑名寄帳

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名寄帳は検地帳とちがって、年貢を徴収するのに便利なように作られたものである。そのために各個人ごとにその保有する土地をまとめて登録したものである。しかし江戸初期には、ここに登録された百姓は納税責任者だけであり、たとえ年貢の負担者であっても、領主に対する責任者でないものは、登録されないことが通説であることを先に述べた。この名寄帳も登録されたものはわずか三名だけである(表―11)。この三名の百姓は分付主であり、それが納税責任者であることは、分付記載の意味を示すものといえる。それで、分付百姓の分付地は、当然、分付主の保有耕地のなかに含まれることになる。検地帳と名寄帳の後尾に記された田畑屋敷の合計は、いずれも五町三反八畝であることに注目されたい。
表4-11 広谷村田畑屋敷名寄帳  寛永十六年三月
No.上田中田下田上畑中畑下畑田畑合屋敷
反畝 歩反畝 歩反畝 歩反畝 歩町反畝 歩反畝 歩町反畝 歩畝 歩
1長右衛門2.204 8.085 8.191 1 0.206 7.202 8 7.293.22
2藤右衛門8 7.214 6.021 3 3.23
3次郎右衛門3 9.224 1.063 5.191 1 6.17
3 9.221 3 1.171 2 9.295 8.191 1 0.206 7.225 3 8.093.22
案内 長右衛門

   〔註〕
(1) 江戸時代には、年貢・諸役は村で引請け、全村民が負担した。それで個々の農民の負担ではない。

(2) 森安彦『幕藩体制の基礎構造』・宮川満『太閤検地論』第Ⅱ部

(3) 藤野保『幕藩体制史の研究』

(4) 北島正元編『武蔵田園簿』

(5) 脚折村の石盛は、上田一〇・中田九・下田七・下々田六である。(『鶴ケ島町史』近世資料編Ⅲ 一九頁)

(6) 五味ケ谷村岸田家の同時代に藤右衛門がある。また、時代は下るが明和五年(一七六八)長竹に長右衛門がある。(『鶴ケ島町史』近世資料編Ⅱ)