慶安元年の検地は当町にとって初めて施行されたものでないらしいことは先に述べたが、現存する検地帳としては初めてのものであり、またその後には一部を除いて検地が行われなかったので、最後の検地帳でもある。
この検地は川越藩総検地だから、川越藩領であれば、どの村にも検地帳があってよいはずだが、今残るのはわずか二〇数か村分にすぎないという(大舘右喜「川越藩」『新編物語藩史』第三巻)。そのうちの四か村分が当町内に保存されているわけである。貴重な歴史的資料である。
この慶安検地帳は、慶安元年に川越藩主松平伊豆守信綱によって施行された検地に基づいて作製されたものである。信綱は寛永一六年(一六三九)、武蔵国忍(おし)藩三万石から加増を受けて六万石で川越藩に入封した。彼が入封以来九年目に検地を施行したのは、次のような事情によるものと考えられる。
川越藩総検地の行われた翌年、慶安二年には、あの有名な「慶安検地条目」と「慶安の御触書(ふれがき)」が制定された。この検地条目は幕府の検地方針を最も明白な形で定めた最初の条目といわれる。この条目と、信綱が一年前に行った川越総検地とは、農政の基本方針で、全然関係のないものではあるまい。彼は将軍家光の側近で、幕閣中枢の地位にある老中であり、幕府は「老中政治」を中心に運営されていたのだから、条目制定にも深く関与したことはまちがいあるまい。この川越藩総検地にはこの検地条目の方針がよく貫徹されている。
しかし関東の幕領では、慶安検地は実施されなかった。およそ二〇年後の寛文八年(一六六八)に「寛文総検地」が施行された。これは、近世の村落体制と、新本百姓とを一般的に成立させた画期的な土地制度の変革とみられている。この検地を契機として、新しい村が生れ、新しい本百姓が一斉に出現したのである。
それを、寛文検地に先立つこと二〇年、寛文検地と同じ意図で、また検地方針で、それを先取りして、信綱は慶安検地を行ったというのが、大野瑞男氏の説(※註1)である。