寛文検地帳

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慶安検地条目という御触書に示された方針、すなわち、小農自立という農政の基本方針は、寛文検地で実現された。そして、近世本百姓が広汎に成立することになった。この検地帳を見ると次のような変化が現われている。
(イ) 名請人の増加
① 隷属農民の上昇 慶長・寛永・寛文と時代が・経過するにつれて、門屋・下人等の隷属農民の地位が徐々に上昇してわずかながら新本百姓として認められるような耕地を獲得した。

② 血縁分家による名請人化 慶安検地条目の「親跡の(相続した)田地の儀、子供分け持ち候はば、銘々に、其の所に名を書き付け、帳に付け申さるべき事」の一条が、条目通りに実行されたのである。この二、三男の分家の名請けが、名請人増加の主流である。

③ 名請人登録に対する政策の変化 上赤尾村の慶長検地では、豪農の中世的な手作経営を営むものを名請人としたが、寛文検地では耕作権を所持するものを名請人とした。

(ロ) 屋敷持農民の増加 名請人の増加とともに、屋敷持農民も増加した。屋敷をもつことは、村で一軒前の百姓と認められることである。その結果、当然のことながら無屋敷者は減少した。

(ハ) 分付百姓の激減 この事は、分付によって示された或程度の主家への隷属が、土地保有の上ではっきりとその隷属を断ち切って、自立した本百姓が出現したことを示している。検地帳面では、その保有する土地が極めて零細であり、経営の上ではその自立を疑わさせる百姓もいる。しかし検地によって自立を公的に認められた本百姓が、その経営を展開する出発点に立った姿が、寛文険地帳面の零細な百姓であったといえる。

 以上が、慶安元年の川越藩総検地におくれること二〇年、寛文八年に行われた関東幕領総検地で出現した新本百姓に関する先学の見解(※註2)である。
 次いで当地方の慶安検地帳は、どんな変化を示しているか。調べてみよう。