鶴ケ島町の慶安検地帳

295 ~ 305
当町には、脚折村・高倉村・三ツ木村・太田ケ村の旧四か村にこの慶安検地帳が残っている。その一覧表は表―12・表―13・表―14・表―15である。
表4-12 慶安検地の階層構成 慶安元年(1648)
 2町以上2町~1町1町~5反5反~1反1反~0屋敷持無屋敷
村名
脚折村7(11%)35(54%)9(14%)2(3%)11(17%)64人45(72%)18(28%)1寺を除く
高倉村1(2%)26(52%)3(6%)8(16%)12(24%)50人26(54%)22(46%)2寺を徐く
三ツ木村6(16%)17(45%)10(26%)2(5%)3(8%)38人25(67%)12(33%)1寺を除く
太田ケ谷村4(6%)24(39%)20(32%)8(13%)6(10%)62人43(72%)17(28%)2寺を除く

表4-13 武州河越領脚折村御検地水帳
慶安元年三月
(松平信綱480石余)
(案内)田中将監・高沢三右衛門・平野甚左衛門・齋藤孫右衛門・( )六左衛門
No.人名屋敷田畑合
反畝 歩町反畝 歩町反畝 歩町反畝 歩
1田中将監(名主)6.001 6 2.103 7 8.185 4 0.28
2高沢三右衛門6.007 5.003 2 8.054 0 3.08
3二郎助1 2.067 0.262 5 0.053 2 1.01
4四郎右衛門6.247 4.182 3 1.223 0 6.10
5新兵衛1 1.177 8.031 7 4.232 5 2.26
6新右衛門6.227 7.051 3 5.072 1 3.12
7甚左衛門5.185 4.181 5 3.112 0 7.29
2.04
8清左衛門2.284 1.071 5 2.251 9 4.02
4.05
9六左衛門3.005 2.061 4 1.141 9 3.20
10惣右衛門5.064 9.121 4 2.031 9 1.15
11茂右衛門2.104 5.131 4 3.171 8 9.00
12七左衛門4.156 4.171 1 6.181 8 3.05
13喜右衛門1 0.203 9.111 3 7.001 7 6.11
14佐右衛門6.123 3.031 3 6.111 6 9.14
15九右衛門3.103 2.081 3 4.021 6 6.10
16彦兵衛7.153 3.051 3 1.131 6 4.18
17七郎右衛門3.124 3.001 2 0.271 6 3.27
18加右衛門5.183 5.351 2 4.091 6 0.14
19次郎兵衛4.295 3.161 0 4.001 5 7.16
20次郎左衛門ナシ3 0.111 2 6.221 5 7.03
21庄右衛門(高野ヤシキ)2.004 4.171 1 1.281 5 6.16
22太郎左衛門4.121 4.181 4 1.181 5 6.06
23甚右衛門5.023 7.021 1 5.201 5 2.22
24小左衛門5.064 3.121 0 7.141 5 0.26
25図書5.263 6.051 1 3.211 4 9.26
26孫兵衛4.002 2.091 2 6.241 4 9.03
27惣左衛門7.001 7.151 2 6.041 4 3.19
28助右衛門3.063 1.051 1 1.021 4 2.07
29次郎右衛門5.023 0.171 0 8.221 3 9.09
3.18
30長兵衛ナシ2 8.231 0 0.031 2 8.26
31市左衛門ナシ2 7.289 7.101 2 5.08
32与五右衛門5.053 0.199 2.241 2 3.13
33斎藤孫右衛門4.231 8.071 0 1.001 1 9.07
34庄左衛門3.062 5.209 2.141 1 8.04
35久右衛門7.101 3.201 0 2.001 1 5.20
36四郎左衛門3.222 4.018 9.111 1 3.12
37市之助4.173 6.107 5.101 1 1.20
38成泉院3.152 7.027 8.251 0 5.27
39長右衛門7.003 6.036 9.171 0 5.20
40九左衛門4.004 0.199 4.091 0 4.28
41三郎右衛門2.202 7.097 5.151 0 2.24
42与次右衛門5.125 0.005 0.271 0 0.27
43八右衛門4.194 1.115 8.179 9.28
44権右衛門4.082 6.016 3.278 9.28
45源左衛門1 0.152 6.285 8.288 5.26
(立野)
46善王寺1 6.051 2.056 8.148 0.19
47彦右衛門ナシ1 7.246 1.267 9.20
48藤左衛門ナシ1 5.045 5.097 0.13
49七郎左衛門4.201 6.004 9.056 5.05
50小右衛門3.181 4.254 1.065 6.01
51善右衛門ナシ05 3.225 3.22
52七右衛門ナシ1 2.201 5.222 8.12
53六右衛門ナシ1.201 4.181 6.08
54佐太郎ナシ07.144.14
55与七郎ナシ0.265.015.22
56作内ナシ3.2303.23
57久左衛門ナシ02.272.27
58市右衛門ナシ02.242.24
59市蔵ナシ02.012.01
60助三郎ナシ02.002.00
61又左衛門ナシ01.261.26
62善十郎ナシ01.121.12
63助左衛門ナシ01.051.05
64長三郎3.00000
2 5 9.1419 8 8.0361 3 3.0881 2 1.11
   町反畝 歩    町友畝 歩
上田   3 9 3.03上畠    4 8 8.25
中田   4 0 6.04中畠  11 0 1.00
下田   6 2 1.29下畠  19 7 5.11
下々田  5 6 6.27下々畠 25 6 8.02屋敷持 44人
計   19 8 8.03計   61 3 3.08無屋敷 19人
屋敷  2 5 9.14計 63人
田・畠・屋敷合83町8反0畝・25歩
(善王寺を除く)

表4-14 武州川越領高倉村御検地水帳 慶安元年(1648)十一月
(案内者)九右衛門 平右衛門 権三郎 長兵衛 六右衛門 庄右衛門
No.人名分付屋敷田畑合
町反畝 歩町反畝 歩町反畝 歩町反畝 歩
1九右衛門6.288 8.012 9 7.083 8 5.09
2孫右衛門九右衛門(一部)4.064 0.281 4 2.221 8 3.20
五郎左衛門(一部)
3彦右衛門3.111 4.001 6 7.091 8 1.09
4九兵衛3.073 6.171 4 1.261 7 8.13
5長右衛門4.213 1.291 4 2.101 7 4.09
6平右衛門2.035 4.261 1 8.131 7 3.09
7長兵衛九右衛門(一部)4.002 8.051 4 1.181 6 9.23
8久右衛門3.273 3.201 3 1.171 6 5.07
9太郎右衛門九右衛門(一部)2.062 9.211 2 9.261 5 9.17
10清兵衛2.282 9.021 2 8.101 5 7.12
11小左衛門2.131 8.121 3 6.271 5 5.09
12藤左衛門3.102 2.001 2 8.061 5 0.06
13又右衛門九右衛門5.101 4.111 3 2.021 4 6.13田畑136.08(九右衛門分)
屋敷 5.10
14六右衛門3.083 3.011 1 3.041 4 6.05
15弥左衛門4.042 8.251 1 6.021 4 4.27
16惣左衛門5.002 8.221 1 2.181 4 1.10
17久左衛門3.101 8.151 2 0.071 3 8.22
18源左衛門3.201 7.051 2 0.201 3 7.25
19甚七郎2.242 4.041 1 3.171 3 7.21
20五郎左衛門3.221 9.001 1 3.161 3 2.16
21庄右衛門4.101 7.221 0 7.111 2 5.03
22彦左衛門6.123 3.278 2.211 1 6.18
23ちの九右衛門(一部)ナシ1 2.271 0 0.271 1 3.24
24七右衛門2.282 4.168 8.041 1 2.20
25茂左衛門3.085.121 0 6.121 1 1.24
26助右衛門2.172 7.128 4.061 1 1.18
27長左衛門ナシ1 3.049 8.091 1 1.13
28彦兵衛ナシ5.229 0.279 6.19
29高福寺8.202 2.166 5.058 7.21
30長泉寺1 6.240.265 3.285 4.24
31茂兵衛4.282 3.2802 3.28
32義兵衛ナシ02 3.272 3.27
33義左衛門ナシ9.131 3.172 3.00
34善右衛門九右衛門ナシ01 9.211 9.21
35庄兵衛弥左衛門ナシ01 3.231 3.23
36平左衛門ナシ01 3.201 3.20
37勘七郎ナシ01 3.131 3.13
38四郎右衛門小左衛門ナシ01 3.061 3.06
39庄左衛門ナシ9.1309.13
40長次郎ナシ0.068.048.10
41金右衛門九右衛門ナシ08.028.02
42小右衛門ナシ07.007.00
43孫左衛門ナシ06.136.13
44権三郎ナシ05.125.12
45源六九右衛門ナシ05.125.12
46治郎兵衛長兵衛ナシ05.105.10
47徳右衛門高福寺ナシ05.055.05
48次郎右衛門ナシ04.244.24
49源右衛門ナシ2.100.283.08
50弥右衛門ナシ02.262.26
1 2 4.158 2 0.1837 9 7.0146 1 7.19
屋敷持26
無屋敷22
(2ケ寺を除く)

表4-15 武州川越領 三ツ木村御検地水帳 慶安元年(1648)二・三月
(案内者)兵庫 賀左衛門 佐右衛門
No.人名分付屋敷田畑合
畝 歩町反畝 歩町反畝 歩町反畝 歩
1仁左衛門3.001 0 9.172 9 7.014 0 6.18
2四郎兵衛7.001 1 5.031 7 2.102 8 7.13
3八右衛門6.068 4.111 9 5.092 7 9.20
4弥兵衛3.204 7.201 8 5.272 3 3.17
5兵部8.038 8.051 4 3.172 3 1.22
6賀(加)左衛門4.291 4.221 6 3.212 0 5.13
7市右衛門ナシ5 2.151 4 2.131 9 4.28
8庄兵衛3.188 3.021 1 1.171 9 4.19
9二郎右衛門6.164 4.221 4 6.021 9 0.24
10次右衛門3.225 0.051 3 9.261 9 0.01
11外右衛門ナシ9 3.229 4.021 8 7.24
12七郎左衛門5.006 1.131 1 1.261 7 3.09
13茂右衛門3.066 0.061 0 8.261 6 9.02
14長右衛門2.285 0.089 9.241 5 0.02
15孫左衛門5.004 1.281 0 7.161 4 9.14
16喜右衛門3.225 2.149 7.001 4 9.14
17久左衛門3.153 8.281 0 2.131 4 1.11
18五右衛門3.064 9.053 9.031 3 8.08
19仁右衛門5.195 3.267 6.211 3 0.17
20助左衛門4.062 6.151 0 3.121 2 9.27
21九右衛門4.054 3.046 8.141 1 1.18
22次左衛門3.121 9.118 9.271 0 9.08
23吉右衛門2.033 0.017 5.081 0 5.09
24二郎左衛門ナシ5 6.103 9.189 5.28
25佐左衛門4.083 1.156 1.219 3.06
26源四郎ナシ1 4.007 6.199 0.19
27加右衛門ナシ3 2.124 9.098 1.21
28茂兵衛1.084 3.112 9.277 3.08
29七右衛門ナシ3 0.274 0.187 1.15
30長蔵ナシ1 5.095 5.277 1.06
31所左衛門3.092 4.254 0.296 5.24
32慈限寺(3 0.10寺地)06 4.036 4.03
33六左衛門ナシ1 5.184 3.165 9.04
34源左衛門ナシ01 6.191 6.19
35長兵衛ナシ1 1.051 1.051 1.50
36戸右衛門3.205.255.255.25
37彦右衛門ナシ4.104.104.10
38七左衛門ナシ2.122.122.12
御蔵屋敷6.08
1 1 1.1916 2 1.1434 0 8.1950 3 0.0
屋敷持25
無屋敷12
(1ケ寺を除く)

表4-16 武州川越領太田ケ谷村御検地水帳 慶安元年(1648)三月
(案内者)多左衛門 七右衛門 三郎左衛門 徳右衛門 喜右衛門
No.人名屋敷田畠合
町反畝 歩町反畝 歩町反畝 歩町反畝 歩
1多左衛門9.001 1 9.233 7 0.214 8 9.23
2庄兵衛6.025 6.092 1 1.272 6 8.06
3金右衛門7.002 9.121 9 7.082 2 6.20
4弥左衛門3.004 7.161 5 6.172 0 4.03
5仁左衛門1 0.155 2.141 4 2.151 9 4.29
6喜右衛門2.285 0.211 4 2.001 9 2.21
7次右衛門7.152 8.041 3 9.051 6 7.09
8八郎左衛門3.204 1.051 1 3.071 5 4.12
9清三郎5.274 9.271 0 1.231 5 1.20
10藤左衛門4.084 1.061 0 8.121 4 9.18
11長三郎5.112 4.041 2 2.061 4 6.10
12与右衛門6.152 4.231 1 3.221 3 8.15
13善次郎1.232 9.019 9.221 2 8.22
14市兵衛4.232 1.241 0 8.011 2 9.25
15七右衛門5.124 4.178 4.031 2 8.20
7.04
16三郎左衛門4.172 8.169 7.141 2 6.00
4.22
17弥次右衛門3.144 5.147 9.241 2 5.08
18徳右衛門4.273 1.288 9.181 2 1.16
19甚蔵6.162 4.229 6.221 2 1.14
20仁兵衛6.242 4.149 5.081 1 9.22
21次郎右衛門4.123 0.298 8.171 1 9.16
22太郎左衛門ナシ2 6.098 9.281 1 6.07
23小左衛門2.162 6.018 5.281 1 1.29
24山三郎ナシ2 2.298 7.141 1 0.13
25太郎兵衛7.03 3.257 5.051 0 9.00
26善三郎3.138.219 8.111 0 7.02
27七郎右衛門ナシ2 4.027 8.091 0 2.11
28市右衛門2.173 0.087 0.001 0 0.08
29惣十郎4.072 2.027 5.219 7.23
30作左衛門5.263 0.096 6.089 6.17
31万福寺除地4 6.064 8.299 5.05
32忠左衛門ナシ1 3.058 1.169 4.21
33三太郎7.002 6.226 5.079 1.29
34六右衛門9.171 4.057 7.229 1.27
35助左衛門6.001 4.087 5.249 0.02
36金左衛門ナシ08 5.258 5.25
37安右衛門9.171 0.057 4.248 4.29
38市之助3.031 4.086 9.248 4.02
39三四郎3.079.166 8.017 7.17
40半右衛門2.201 0.066 6.147 6.20
41久右衛門4.201 9.095 0.086 9.17
42曾右衛門2.037.206 1.116 9.01
43戸右衛門8.161 3.185 0.046 3.22
44勘十郎4.201 1.144 7.065 8.20
45三右衛門3.011 7.114 0.205 8.01
46九右衛門6.1105 5.175 5.17
47久左衛門2.206.074 8.265 5.03
48彦左衛門4.161.185 1.285 3.16
49宗十郎ナシ9.292 3.093 3.08
50宗三郎ナシ02 9.152 9.15
51惣三郎1 1.0802 6.282 6.28
52彦右衛門ナシ1 3.141 2.272 6.11
53常福寺除地01 7.211 7.21
54理右衛門ナシ1 2.0801 2.08
55与次右衛門ナシ1 2.0001 2.00
56山九郎ナシ01 0.001 0.00
57次郎左衛門ナシ08.238.23
58惣左衛門ナシ8.0708.07
59三次郎ナシ06.006.00
60藤三郎ナシ2.1102.11
61七郎左衛門ナシ2.0502.05
62久八郎ナシ.080.08
蔵屋敷6.20
622町5反4畝14歩15町0反2畝14歩48町7反9畝10歩66町3反6畝08歩
名請人 60人(屋敷持 43人 無屋敷 17人(万福寺・常福寺・蔵屋敷を除く))

 五反以上の耕地所持者については、
脚折村  五一名(七九%)

高倉村  三〇名(六〇%)

三ツ木村 三三名(八七%)

太田ケ谷村四八名(七七%)

 高倉村を除いて、いずれも村民の八割近くが五反以上の耕地を保有している。
 五反未満は、
脚折村  一三名(二〇%)

高倉村  二〇名(四〇%)

三ツ木村  五名(一三%)

太田ケ谷村一四名(二三%)

 これも高倉村を除いて、村民の二割ぐらいである。三ツ木村はわずか五名、村民の一割近くしか零細農はいない。先に述べたように五反未満の小百姓は独立して再生産を営むことのできない階層であるから、彼らは検地帳の名請人となっても、相変らず上層農家に夫役を提出して、生計を保っていたと思われる。辛うじて再生産のできる五反~一町の階層と、一町以上の階層が村民の大多数を占めることは、高倉村を除く三か村では、前代の零細農民が上昇して、新本百姓となり、比較的安定した農業経営を行つていたと考えられる。
 これに反して、高倉村の場合、一町以上の農民二七名(五四%)、五反未満が二〇名(四〇%)であり、中間層というべき一町~五反の層がわずか三名(六%)と極端に少く、ここでは完全に貧富が両極分解をしている。また、少数ながら慶安期に入ってもなお分付百姓が残存していることもあり、これは当村の成立事情が他村と異っていることに起因しているためだと思われる。しかし慶安以前の水帳も名寄帳も見出せないので、それを明らかにすることはできない。
 これを、関東幕領の総検地である寛文検地と比較すると次のようである。
 寛文検地では、幕府の農政の基本方針が、慶安検地条目と慶安御触書(ふれがき)に基いて、小農自立策を達成したとされるが、川越領西部の当地域ではどんな状況であったのか。
(イ) 名請人の増加
 慶安検地帳の名請人は、
 脚折村六四人、三ツ木村三八人
 高倉村五〇人、太田ケ谷村六三人である。しかし、慶長・寛永の検地帳がないので、前代と比べてどれだけ増加したかを調べることはできない。それで、後年の記録によつて、慶安検地帳の名請人数が、小農自立達成期の人数であるか否かを調べるより他はない。
 表―17によると、脚折村では、慶安の名請人はなお増加して、元禄名寄帳では七九名となり、一五名の増加である。元禄以後は多少の増減を繰返して、明治九年には七六名となっている。
表4-17 戸数変遷表
(単位戸)
村名脚折村三ツ木村高倉村太田ケ谷村藤金村上広谷村五味ケ谷村備考
年代
1648慶安元年64385062検地帳
1665寛文五年43名寄帳
1691元禄四年7953名寄帳
1736元文元年56明細帳
1754宝歴四年56同上
1769明和四年本百姓38同上
借屋1
借地1
1791寛政三年19(一部)同上
1804~29文化~文政75535786515034風土記稿
1823文政六年78村掟
1832天保三年19(一部)名寄帳
1833〃 四年69村掟
1843天保十四年17(一部)明細帳
1830~43天保年中67名寄帳
1856安政三年坪内 50明細帳
金田 10
御料  6
1861文久元年坪内 50同上
金田 10
御料  5
1865慶応元年38同上
1868明治元年坪内 50同上
金田 10
御料  7
1872〃 五年78戸数調
1876〃 九年76486174503541郡村誌

 三ツ木村では、寛文・元禄と増加の一途をたどり、文化・文政期には五三名で現状維持である。天保年中に六七名に急増しているが、それ以後減少して、明治九年には四八名である。高倉村では、元文元年に五六名で慶安よりは六名増加したが、文化・文政になっても一名の増加に止まっている。これに反して太田ケ谷村では、文化・文政期に八六名となり二四名の増加である。これは延享元年(一七四四)に新田が開発された結果だろうと思われる。当地域では未開の原野が多く、元禄期迄に開発が盛んに行われ、水田地域や山村地帯とちがつて、分地分家ではなく新開発による分家が盛んに行われた結果であろう。開発の歴史については後述する。明和四年(一七六七)の五味ケ谷村で、本百姓三八軒・借屋・借地各々一人とあるのは、本百姓株の固定している状況を示すものである。
(ロ) 屋敷持農民の増加
 これも前代と比較はできないが、表―18に屋敷持農民と無屋敷農民の数を示す。
表4-18 屋敷持農民と無屋敷農民
年代慶安倹地寛文名寄帳元禄名寄帳明和四年明細帳
村別
脚折村屋 四五人(七二%)五五(七〇%)
無 一八人(二八%)二四(三〇%)
三ツ木村屋 二五人(六八%)二八(六四%)三〇(五六%)
無 一二人(三二%)一六(三六%)二四(四四%)
高倉村屋 二六人(五四%)
無 二二人(四六%)
太田ケ谷村屋 四三人(七一%)
無 一七人(二八%)
五味ケ谷村本百姓
三八(九五%)
二( 五%)
(寺院は屋敷に入れない)屋=屋敷持
            無=無屋敷

 資料となる名寄帳は、脚折と三ツ木だけしかない。しかも元禄以降は分割知行となっているので、全村を網羅した名寄帳・明細帳は作製されていなかった。高倉・太田ケ谷には屋敷持と無屋敷の農民を区別するように資料は残っていない。脚折村の場合、屋敷持農民は慶安の四五人から元禄には一〇人増加して五五人となつているが、それとともに無屋敷農民も増加して一八人から二四人となっている。両者の比率は相変らずほぼ七対三である。
 三ツ木村の場合も同じく、屋敷持農民は慶安二五人(六八%)、寛文二八人(六四%)、元禄三〇人(五二%)と増加しているが、無屋敷農民も一二人(三二%)。一六人(三六%)、二三人(四三%)と人数も比率も増加している。これは先述のように、当地方の村々には広大な原野があり、元禄頃までは盛んに開発が行われ、次三男や隷属農民は、その新開地を生活の基盤として分家し、名請人となったものの、屋敷を登録するに至らなかったからであろう。
 なお先述のように五味ケ谷村の明和四年(一七六七)の明細帳に「本百姓三八軒、借屋一軒、借地一軒」とあるが、本百姓体制が完成した明和になってもまだ二人の無屋敷農民がいて、本百姓となれなかったのである。
(ハ) 分付百姓の激減
 慶安検地帳には、脚折村・三ツ木村・太田ケ谷村の場合、慶長・寛永の検地帳に記載された分付記載はみられなくなっている。これは、分付百姓が分付主に対する隷属関係が消滅したことを意味するものである。すなわち小百姓は慶安元年の陰地によつて、検地帳登録人たる資格を獲得し、その自立を公認されたことになった。彼らも年貢・夫役納付の責任者となったわけである。しかし実状としては、五反以下の階層が、脚折村一三名(二〇%)・高倉村二〇名(四〇%)・三ツ木村五名(一三%)・太田ケ谷村一四名(二三%)を占め、高倉村では村民の四割に当り、しかも一反以下が一二名(二四%)で、村民の四分一である。これらの自立できない多数の下層農民が一斉に帳付けされたことも事実である。彼らは、無限ともいうべき広大な原野を開発することによって、再生産できるだけの耕地を獲得することがその後の課題であった。
 分付記載の残っているのは高倉村だけであるが、分付主は七人、分付百姓は一一名である。そのうち名主九右衛門は九人の分付百姓を抱えている。その反別は三町四反一畝五歩である。彼の保有耕地は三町八反五畝九歩であるから、両者を合せると七町二反六畝一一歩となる。分付百姓のうち善右衛門(一反三畝二六歩)・金右衛門(八畝二歩)・源六(五畝一二歩)の三人は零細な畑を耕作し、主家に相変らず夫役を提出する譜代下人であろうか。
(ニ) 概括
 脚折村では、慶安検地帳による名請人の数はその後も増加して、元禄四年の名寄帳で七五名となり、その後は増減して、明治九年の七六名となる。その点からいえば、小農自立の達成期は元禄まで待たねばならぬといえよう。
 屋敷持農民はもちろん増加しているが、元禄に至るも同じ比率で無屋敷農民もまた増加している。三ツ木村の場合は、一一パーセントの増加である。もっとも小農自立が完成して、新本百姓体制が安定した明和四年(一七六七)にも、五味ケ谷村ではなお二人(五%)の無屋敷農民がいる。これは幕末になっても同様である。しかし、屋敷持農民の数は、元禄期以降もなお増加をつづけたであろう。分付記載は、慶安検地では完全に消滅する。ただ高倉村では少数ではあるが残存する。これは繰返しいうように、村の成立事情が他村と異るためであろう。耕地の保有面積が極端に両極分解していることは前に述べたが、名主小川家やその血縁分家が広大な耕地を保有し、独占体制をしていた名残りであろう。
 要するに、当地域では、小農自立の達成は慶安期には川越藩主の意図に反してまだ機が熟せず、その後徐々に上昇して元禄期に至って達成したとみるべきであろう。
   〔註〕
  (1) 大野瑞男「近世前期譜代藩領の特質」
  (2) 北島正元『江戸幕府の権力構造』
     藤野保『幕藩体制史の研究』
     木村礎『封建村落』
     伊藤好一『江戸地廻り経済の展開』