同じく本百姓といっても、時代によって二通りに分けられる。一つは江戸時代初期の本百姓で、初期本百姓とよばれる階層である。今一つは、慶安・寛文頃に現われる新本百姓あるいは近世本百姓といわれる百姓である。
初期本百姓(以下略して本百姓という)は、検地帳に屋敷地を名請けする百姓のことで、屋敷地をもたない百姓と区別されていた。それで本百姓を他の百姓と区別する最大の基準は登録した屋敷地を所持するか否かであった。屋敷地を所持する本百姓は、中世の土豪・地侍に系譜を引く百姓で、隷属的農民を従えて、下人労働経営を行っていた。当時は軍事的緊張が高まって軍役に従事する人夫を非常に必要とした時期だったので、農村からの人夫徴集が緊急の課題であった。その場合、夫役供給に余力のある本百姓に夫役徴集の義務を負わせることが最適の対応策であった。本百姓の義務の一つに夫役負担の責任者であるのはそのためである。
本百姓のことを「役儀の百姓」という。その「役儀」とは、領主に対して、自分の高請地のほかに、部屋住みや零細農民の高請地の年貢をも合せて負担し、また、夫役を負担する役家であるということである。経営面からみると、部屋住みや零細農民の夫役を使用して農業を営むのを特徴としていた(宮川満『太閣検地論』第Ⅱ部)。
本百姓の例としては、慶長二年(一五九七)の上赤尾村の検地帳に記載された分付主将監・森田・林・彦四・新左衛門のような武士に出自をもつ百姓であり、また元和七年(一六二一)の狭山市柏原の検地帳に見える八人の分付主が挙げられる。上赤尾村は他に農民が一〇二名もいたが、彼らは分付百姓なので本百姓ではなかった。柏原にも八八人の農民がいたが、まだ本百姓といえる身分ではなかった。寛永一六年(一六三九)広谷村の名寄帳に帳付けされた長右衛門・次郎右衛門・藤右衛門の三人は本百姓であるが、喜右衛門・作十郎・杢右衛門・喜左衛門・三蔵の五人の耕作者が、一人前の本百姓となるのは、慶安以降の検地にまたなければならなかった。