新本百姓

318 ~ 319
慶安・寛文頃になると、百姓の負担する年貢(生産物で納める)・夫役(労働を提供する)のうち、夫役はあまり重要でなくなり、労働の代りに米または貨幣で納めるようになった。戦乱が遠ざかり泰平の世がつづくと、軍夫として人夫を徴収する必要が領主側になくなったからである。この年貢・夫役の形態変化が、百姓の身分差の規準を夫役負担の有無から、この時期を境にして、本百姓とは耕地保有者を示す高持百姓と同じ意味となった。そして、耕地をもたない百姓を「水呑」というようになった。
 それで、村の構成員である住民は二つの階層に分れることになった。
(イ) 納税名義人 百姓株・高持百姓・本百姓

(ロ) 水呑 無高の百姓、事実上の納税者であっても、公の納税名義人でない。

 こうして農民は、多少にかかわらず田畑を名請けし、年貢・諸役を納める限りは、差別を設けず同一の身分として確定したのである。大地主であろうが小規模の家族経営であろうが、その実体とは関係はなかった。しかしこの本百姓という身分は、領主が納税の対象として、一律の義務を負わせるために設定したのであって、村の本百姓内部に影響を及ぼすものではない。
 村では本百姓の中にもいろいろの階層に分れていて、それが村の伝統として受けつがれてきた。
 (イ) 本百姓に対し、水呑・地借(じがり)(借地人)・店借(たながり)(借家人)
 (ロ) 役人衆と小前の者あるいは小前末々
 (ハ) 重立(おもだ)つ(大立つ)者と中以下の者
 (ニ) 大高持と小高持

などであるが、農村社会の特徴を最もよく現わしているのは家の格式である。略して家格という。また「家がら」が良いとか悪いとかいう。家格とは、その家の過去と現在に占めているあらゆる地位の総合であるが、やはり物を言うのは経済力と封建的な権威で裏打ちされることである。
 江戸時代には家格による差別が甚しく、村によっては、家格の低いものは、庇(ひさし)・濡縁(ぬれえん)・破風(はふ)板・釣天井を作ることは許されない。とぼ口(入口)の幅は三尺以下でなければならない。衣服についても、羽織・袴・下駄(げた)・雪駄(せった)・足袋(たび)の着用は禁じられ、雨が降っても傘をさしてはいけない。また名前に衛門・兵衛・太郎をつけることも家格に左右される。私もその幾つかの禁制を当町の故老から伝え聞いたものである。
 今日では、家格は常に人の念頭に浮んでいるわけではないが、改まった席とか、縁談でもおきた時に、無意識に出てくる家の差別である。その差別が永い間、封建村落の古い秩序を守ってきたわけである。
 先述の「赤尾村の覚書」の元禄一二年の項に、
この時、古来の屋舗(やしき)持ちまで残らず御縄(検地)改まり、屋舗持ち六十九軒増して、つごう分地かれこれ七十五軒と水帳に記しこれあり。

村中屋舗持ち  本家二十四軒

と記載するのをみると、赤尾村でも元禄一二年になって、六九軒の百姓が・自立を達成して、近世本百姓体制が成立したことを示している。