第四節 天保年間(一八三〇~四三)畑名寄帳 三ツ木村

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 この名寄帳は畑だけの名寄帳である。水田の記載はない。当村は狭い谷田(やちだ)の天水場のことだから、水田の開発はすでに限界に達していた。畑は、江戸初期のような旺盛な開発は望めないとしても、なおたゆまずつづけられていたのである。元禄四年(一六九一)の四四町三反三畝余が、天保年間(一八三〇―四三)には四四町九反九畝余となり、六反六畝二六歩の増加である。慶安元年(一六四八)から元禄四年までの四三年間に、一〇町二反四畝の大開発が行われたのに比べると、あまりにも面積が少ないが、これは開発する原野が減少したためもあるが、幕府がその方針を転換して、開発を仰制する政策をとるようになったからである。その理由は、旺盛な新田開発は、その反面に古田の荒廃を招くからである。
 それで元禄以後は、享保年代の武蔵野新田を除いて、開発は停滞することになった。
 幕府の新田開発の方針は次のように変化した。江戸時代の初めから寛文(一六六九―七二)頃までは、新田開発は積極的に奨励され、大開発時代を迎えたが、当時はそれがもたらす古田・古村への支障は僅かなものであった。ところが、寛文以降になると新田開発が古村の利益に反するという事情が起こってきた。そのため開発は一時停頓したが、享保期(一七一六―三五)になると、幕府の財政立て直しの目的もあって、武蔵野台地は一斉に開発されることになった。
 しかし、享保期も終り、江戸時代後半期になると、肥料給源である林野秣場(まぐさば)を潰して畑地にしたために、購入肥料が増大し、肥料価格が高騰した。その結果、肥料を少量しか投下し得ない農業が多数出現し、彼らの経営は劣等化し、なかには転落する者も出現した。
 新田開発が大きな転換を余儀なくされたのは天明期(一七八一―八八)であった。この時期には全国的に飢饉が起こり、人口が激減した。労働力が減少しては新田開発どころではなくなった。それ以後の幕府の政策は、荒地の起こし返し(復旧)を中心とする本田の確保という消極的な方針をとるようになった。しかし幕府が開発を抑える方向に進んだことと、農民が新田造成に励むことは別の問題であった。ことに生産力が徐々に恢復してきた文化・文政期(一八〇四―二九)以降は、潜行的に新田開発は進んでいたのである。
 こういう状況下で進められた新開発がこの名寄帳に記載された新下々畑である。
 開発人は高倉村の次郎左衛門の三反七畝一一歩を筆頭に、一反以上が四人、一反未満~四畝が八所、二畝未満が四人で、最も少ない弥平次が青棚で一二歩を開発した。場所は下原・坊林・宮地・後呂・針ヶ谷・西原・青棚である。村の西はずれの、高倉村・脚折村に接続した原野を、切添えに細々と開発を進めたわけである。
表4-29 三ツ木村名寄帳(畑)天保年間(1830~43)
反別2町以上2町~1町1町~5反5反~1反1反~0屋敷持無屋敷
人数4816318672542