第五節 文化・文政期の脚折村名寄帳

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 表―30は、脚折村のうち、旗本坪内知行所の文化八年(一八一一)の「村絵図添帳」と、田安領の文政四年(一八二一)の「名寄帳」に記載された百姓保有耕地を合算したものである。脚折村は享保六年(一七二一)以降、一円支配地となることなく、分割されて二給ないし三給地となったため、全村の統計を一つの資料でまとめることは不可能である。
 そのためやむをえず、時代としては一〇年のずれが生ずるが、それを一応度外視して、文化・文政期としてまとめてみた。それで正確な統計とはいえないが、幕末の階層構成の概要を知るよすがとしたい。
表4-30 脚折名寄帳 文化・文政期(1811~21)
(坪内知行所)文化八年(1811)「村絵図添帳」
(田安領)文政四年(1821)「名寄帳」
No.人名屋敷田畑合
町反畝 歩町反畝 歩町反畝 歩町反畝 歩
1仁右衛門9.081 2 3.054 1 6.165 3 9.21
2万右衛門1 8.041 4 9.143 5 6.175 0 6.01
3佐兵衛3.068 0.202 7 4.113 5 5.01
4五左衛門5.066 1.232 8 5.033 4 6.26
2.00
5織右衛門3.081 2 1.221 8 7.073 0 8.29
6善八5.145 6.272 0 7.062 6 4.03
7久八2.2102 5 8.092 5 8.09
8藤八2.113 6.141 9 5.242 3 2.08
9次郎右衛門5.207 4.031 4 0.042 1 4.07
10与兵衛3.185 9.211 4 7.182 0 7.19
11文右衛門2.226 7.081 2 8.001 9 5.08
12善能寺(除地)6 2.001 2 0.181 8 2.18
13佐右衛門5.143 3.161 4 8.001 8 1.16
14幸七2.102 9.041 2 9.031 5 8.07
15忠左衛門1.101 9.031 3 2.201 5 1.23
16久左衛門下々畑 9.072 4.271 2 5.231 5 0.20
17磯右衛門2.232 3.201 1 2.021 3 5.22
18仁兵衛7.001 1.011 1 9.231 3 0.24
19藤兵衛2.221 8.211 0 8.251 2 7.16
20兵左衛門7.001 2.211 1 1.261 2 4.17
21宇兵衛3.123 1.049 1.011 2 2.05
22兵右衛門4.012 0.139 0.241 2 0.07
23多左衛門2.244 4.296 7.191 1 2.18
24前方弥平次2.113 0.198 1.251 1 2.14
3.11
25源介中畑 3.141 2.031 0 0.081 1 2.08
26彦左衛門3.113 2.107 1.131 0 3.23
27小右衛門2.008 1.081 9.081 0 0.16
28藤右衛門2.122 3.266 9.149 3.10
1.06
29忠右衛門4.002 9.046 0.168 9.20
30数右衛門ナシ1 2.277 4.288 7.25
31喜右衛門2.183 7.234 9.238 7.16
32太右衛門6.121 3.047 1.298 5.03
33与平次下畑 4.243.297 8.288 2.27
34伊兵衛下畑 6.068.097 2.288 1.07
35平左衛門2.1807 8.297 8.29
36勘兵衛4.294 3.083 4.237 8.01
37兵七2.148.066 7.267 6.02
38半七下々畑 5.001 9.195 6.037 5.22
39又右衛門3.1107 2.147 2.14
40紋右衛門1.001 5.125 6.297 2.11
41伊右衛門後家4.197.226 3.207 1.12
42武兵衛4.271 7.265 1.276 9.23
43六右衛門ナシ1 8.005 0.106 8.10
44九右衛門ナシ3 0.183 6.086 6.21
45正福院2.281 5.135 1.066 6.19
1.10
46甚兵衛ナシ7.135 3.076 5.20
47市郎兵衛3.1810.065 4.196 4.25
48八左衛門下畑 8.127.224 9.215 7.13
49与八3.1204 2.154 2.15
50武左衛門下々畑 4.257.023 5.084 2.10
51金蔵1 0.151.054 0.274 2.02
52新兵衛2.0504 1.284 1.28
53杢右衛門4.202 4.121 4.013 8.13
54惣吉0.081 0.112 7.153 7.26
55多七4.206.083 0.213 6.29
56治五右衛門2.2403 5.263 5.26
57久兵衛中畑 8.0703 5.033 5.03
58助右衛門1.001 2.242 2.063 5.00
59喜平次ナシ1 5.171 7.243 3.11
60出口五右衛門下畑 1.001 1.212 0.043 1.25
61浅右衛門ナシ03 1.053 1.05
62要右衛門下畑 5.3003 0.273 0.27
63源七御高札場 6.2802 6.002 6.00
64弥次兵衛下々畑 1 0.020.132 5.122 5.25
65伝右衛門下畑 7.0002 4.282 4.28
66八郎兵衛3.061 3.141 1.052 4.19
67惣七2.282.061 8.282 1.04
68重右衛門2.001 1.026.191 8.01
69政右衛門2.243.251 3.261 7.21
70丈右衛門6.004.081 1.221 6.00
71善右衛門0.1501 5.211 5.21
72与七2.2401 3.081 3.08
73勘左衛門ナシ01 2.181 2.18
74惣左衛門下々畑 1 3.1801 2.161 2.16
75治右衛門ナシ01 1.051 1.05
76長右衛門2.058.082.261 1.04
77重左衛門2.006.005.011 1.01
78喜兵衛(善八の高に入る)09.299.29
79平蔵(2の父)--8.2008.20
80七兵衛6.0007.087.08
81太平次4.2007.057.05
82えん上畑 3.2706.126.12
83彦八下畑 5.2805.285.28
84清右衛門忠右衛門いん居4.0005.055.05
85なか下々畑 5.0405.045.04
86大日坊--02.122.12
2 3 7.1319 1 7.1370 1 9.0689 3 6.19
(名主)仁右衛門 万右衛門       屋敷持 77(1寺を除く)
(組頭)五左衛門 久八 磯右衛門 善八 無屋敷 8
(百姓代)惣八

 表―31に見るように、元禄期(一六八八~一七六三)に八七町六反八畝六歩あった耕地は、八九町三反六畝一九歩となり、わずか一町六反八畝一三歩の増加にとどまっている。慶安元年より元禄期迄の約五五年間に三町八反七畝余の大開発に比べると、当村でも、この期間は耕地開発が停滞した期間である。これは幕府の方針が開発抑制の方向に転換したためであることは先述の通りである。特に屋敷地が慶安に比して二反二畝余の減少となり、水田もまた七反余が減少している。江戸初期には「新田開発」の文字が示すように、耕地開発の重点は圧倒的に水田におかれていた。しかし、地理的条件の限度を越えた水田造成は、「水便の地」を得られないまま、きびしい用水規制におさえられて、「田、畑成(はたなり)」の運命をたどったものと考えられる。江戸初期のブームに乗って盛んに造成された水田が、幕末に減少の一途をたどったのは、こういう事情によるものである。
表4-31 脚折村耕地の変遷
地種屋敷地田畑合
年代
町反畝 歩町反畝 歩町反畝 歩町反畝 歩
慶安元年(1648)2 5 9.1419 8 8.0361 3 3.0883 8 0.25
元禄期(1688~1703)2 6 1.0919 7 1.2967 9 6.0787 6 8.06
文化・文政(1804~29)2 3 7.1319 1 7.1370 1 9.0689 3 6.19
増減
(慶安→文政)2 2.017 0.208 3 5.285 5 5.24

 耕地保有状況からみた階層構成(表―32)は、五反以上が四八人(五六%)で過半数を占め、安定した経営を行っている。五反未満が三八人(四四%)もいるが、一反未満の水呑層は九人で、約一割である。彼らは一町以上の高持層二七人(三二%)に依存して生計を立てていたものと思われる。屋敷持は七四人(八七%)を占めて、ほとんど九割の百姓が屋敷をもつようになっている。無屋敷は一一人(一三%)と少なくなっており、九人の水呑層の六人までが屋敷をもつている。残り三人は高持層の隠居と、修験である。
表4-32 脚折村階層表 文化八年(1811)~文政四年(1821)
2町以上2町~1町1町~5反5反~1反1反~0屋敷持無屋敷
10人(12%)17人(20%)21人(24%)29人(34%)9人(10%)86人79人(91%)8人(9%)
48人(56%)38人(44%)

 村の階層構成について、寛政三年(一七九一)の「明細帳」で、名主は次のように報告している。
 「勝(すぐ)れ候持高(マヽ)百姓御座なく候」と前提した上で、
  四町四・五反迄    一五人
  三町~三町四・五反迄 二〇人
  一町~一町四・五反迄 二四人
    計        五九人
             (六六%)
  四反・五反の水呑百姓 三〇人
             (三四%)
    合計       八九人
 この分類と比較するために、文化・文政期の名寄帳を同様な方法で分類すれば次のようになる。
  五町以上~五町三反迄  二人
  三町以上~三町五反迄  三人
  一町以上~三町未満迄 二一人
  五反以上~一町未満迄 二一人
    計     四七人(五五%)
  五反未満の水呑層   三八人
              (四五%)
    総計             八五人(一寺を除く)
 なお、その後の変化を知るために、明治初年の農民階層分化(※註1)の状況を、同じ規準で表示すると次のようである。
  四町七反一畝~三町五反八畝     二人
  三町以上~三町五反迄        〇
  一町以上~三町未満迄       三二人(一寺を除く)
  五反以上~一町未満迄       一一人
    計              四五人(五二%)
  五反未満の水呑百姓        四二人(四八%)
    総計             八七人
 以上、三つの統計が示すように、当町内では上層農家の耕地集積が進まず、そのため「勝れたる高持百姓」は幕末に至るまで出現していない。逆に、彼らの保有耕地は減少する傾向を示している。それは、当町の地理的状況から、商業的農業が未発達に終ったからである。
 当町は、武蔵野西部の外秩父に近い畑作地帯であり、「川越御城へ道法(のり)二里余、江戸日本橋まで、上板橋通り十二里余」の距離を隔て、交通、運輸の便も悪く「津出しの新河岸へ四里、新河岸より江戸まで二十五里」という舟運の不便さであった。従って栽培作物も「前栽(せんざい)物(青物・野菜)江戸向け、ならびに近在市場へ出し申し候品御座なく候」(文政三年「明細帳」)という純粋の農村で、農民は父祖伝来の米麦の主穀生産に専念していた。商品作物の生産や商品流通の世界に踏み入れることも少なく(絶対ないとはいえないが)、「畑作の儀、大麦・小麦・芋・粟・ひえ・蕎麦・小豆・岡穂(おかぼ)(陸稲)・菜・大根の類作り申し候」(同)という作物を栽培し、「麦・雑穀の比重が高く、畑作主穀生産地帯の性格の強い(※註2)」農村であり、「江戸への物資供給や、近くの城下町(川越)や宿場町(坂戸)の前期的資本の収奪の影響もあまり強くなく、商品生産も、農民層の分解も停滞的(※註3)で」あった。
 文化・文政期と明治初年を比較して、その増減をみると、次のように変化している。
  三町以上      三人減
  一町以上~三町未満 十一人増
  五反以上~一町未満 一〇人減
  五反未満の水呑百姓  四人増
 この分類は村内農民だけの保有高を示したもので、他に村外の耕地保有者が三四名ある。三反九畝の関間新田半三郎を筆頭に、近隣一一か村の保有者が零細な耕地を登録されている。三町以上の上層農民や、五反以上~一町未満の下層農民の保有耕地の減少は、一町以上~三町未満の保有者が一一人も増加したのと、村外耕地保有者の手に渡ったものであろう。その原因は質流れによるものか、或は売却によるものかは、時代が明治にわたっているので明らかでない。
 次に高倉村の宝暦四年(一七五四)の「明細帳」によると、「勝れ候高持百姓御座なく候」と前提し、
  二町~五町    四人
  五反~一町二反 二〇人
    計     二四人(四三%)
  二反~四反   二〇人
  一反      一〇人
  水呑       二人
    計     三二人(五七%)
    総計    五六人
 脚折村では、五反以上五九人(六六%)、五反未満三〇人(三四%)で、農民の三分の二が再生産可能であり、大高持の小作人にならなければ再生産できない貧農は三分の一である。高倉村では、五反以上が二四人(四三%)それだけこの村では小作人の比率が高いといわねばならぬ。
 三ツ木村・太田ケ谷村・藤金村・上広谷村・五味ケ谷村については、それぞれ村の耕地保有情況に応じて異る階層構成を示していると思われるが、農間余業に乏しい当町内では、大した相違はなかったであろう。それを実証する資料がないのが遺憾である。
 ちなみに、高倉村では無高の百姓を水呑とするが、脚折村では四~五反までも水呑の中に入れている。水呑とは水ばかり呑んで暮らしている百姓ということである。これで水呑には二通りの意味があることが分る。(イ)本百姓に対する言葉で、耕地をもたず、小作等によって生活をする者であり、百姓でありながら公には百姓とは認められなかったものである。(ロ)小高の百姓で、ばく然と貧乏百姓をさす場合である。高倉村では(イ)の意味に用い、脚折村では(ロ)の意味に使われた。隣村でありながら、このように不統一な使い方をしているのは、水呑という言葉が如何にばく然と貧乏百姓を指していたかを示すものである。
   〔註〕
(1) 明治三年「名寄帳」坪内分、明治五年「名寄帳」金田分、坪内分の合計

(2) 長谷川伸三『近世農村構造の史的分析』

(3) 古島敏雄『近世日本農業の展開』