そのためやむをえず、時代としては一〇年のずれが生ずるが、それを一応度外視して、文化・文政期としてまとめてみた。それで正確な統計とはいえないが、幕末の階層構成の概要を知るよすがとしたい。
表4-30 脚折名寄帳 文化・文政期(1811~21) |
(坪内知行所)文化八年(1811)「村絵図添帳」 |
(田安領)文政四年(1821)「名寄帳」 |
No. | 人名 | 屋敷 | 田 | 畑 | 田畑合 |
町反畝 歩 | 町反畝 歩 | 町反畝 歩 | 町反畝 歩 | ||
1 | 仁右衛門 | 9.08 | 1 2 3.05 | 4 1 6.16 | 5 3 9.21 |
2 | 万右衛門 | 1 8.04 | 1 4 9.14 | 3 5 6.17 | 5 0 6.01 |
3 | 佐兵衛 | 3.06 | 8 0.20 | 2 7 4.11 | 3 5 5.01 |
4 | 五左衛門 | 5.06 | 6 1.23 | 2 8 5.03 | 3 4 6.26 |
2.00 | |||||
5 | 織右衛門 | 3.08 | 1 2 1.22 | 1 8 7.07 | 3 0 8.29 |
6 | 善八 | 5.14 | 5 6.27 | 2 0 7.06 | 2 6 4.03 |
7 | 久八 | 2.21 | 0 | 2 5 8.09 | 2 5 8.09 |
8 | 藤八 | 2.11 | 3 6.14 | 1 9 5.24 | 2 3 2.08 |
9 | 次郎右衛門 | 5.20 | 7 4.03 | 1 4 0.04 | 2 1 4.07 |
10 | 与兵衛 | 3.18 | 5 9.21 | 1 4 7.18 | 2 0 7.19 |
11 | 文右衛門 | 2.22 | 6 7.08 | 1 2 8.00 | 1 9 5.08 |
12 | 善能寺 | (除地) | 6 2.00 | 1 2 0.18 | 1 8 2.18 |
13 | 佐右衛門 | 5.14 | 3 3.16 | 1 4 8.00 | 1 8 1.16 |
14 | 幸七 | 2.10 | 2 9.04 | 1 2 9.03 | 1 5 8.07 |
15 | 忠左衛門 | 1.10 | 1 9.03 | 1 3 2.20 | 1 5 1.23 |
16 | 久左衛門 | 下々畑 9.07 | 2 4.27 | 1 2 5.23 | 1 5 0.20 |
17 | 磯右衛門 | 2.23 | 2 3.20 | 1 1 2.02 | 1 3 5.22 |
18 | 仁兵衛 | 7.00 | 1 1.01 | 1 1 9.23 | 1 3 0.24 |
19 | 藤兵衛 | 2.22 | 1 8.21 | 1 0 8.25 | 1 2 7.16 |
20 | 兵左衛門 | 7.00 | 1 2.21 | 1 1 1.26 | 1 2 4.17 |
21 | 宇兵衛 | 3.12 | 3 1.04 | 9 1.01 | 1 2 2.05 |
22 | 兵右衛門 | 4.01 | 2 0.13 | 9 0.24 | 1 2 0.07 |
23 | 多左衛門 | 2.24 | 4 4.29 | 6 7.19 | 1 1 2.18 |
24 | 前方弥平次 | 2.11 | 3 0.19 | 8 1.25 | 1 1 2.14 |
3.11 | |||||
25 | 源介 | 中畑 3.14 | 1 2.03 | 1 0 0.08 | 1 1 2.08 |
26 | 彦左衛門 | 3.11 | 3 2.10 | 7 1.13 | 1 0 3.23 |
27 | 小右衛門 | 2.00 | 8 1.08 | 1 9.08 | 1 0 0.16 |
28 | 藤右衛門 | 2.12 | 2 3.26 | 6 9.14 | 9 3.10 |
1.06 | |||||
29 | 忠右衛門 | 4.00 | 2 9.04 | 6 0.16 | 8 9.20 |
30 | 数右衛門 | ナシ | 1 2.27 | 7 4.28 | 8 7.25 |
31 | 喜右衛門 | 2.18 | 3 7.23 | 4 9.23 | 8 7.16 |
32 | 太右衛門 | 6.12 | 1 3.04 | 7 1.29 | 8 5.03 |
33 | 与平次 | 下畑 4.24 | 3.29 | 7 8.28 | 8 2.27 |
34 | 伊兵衛 | 下畑 6.06 | 8.09 | 7 2.28 | 8 1.07 |
35 | 平左衛門 | 2.18 | 0 | 7 8.29 | 7 8.29 |
36 | 勘兵衛 | 4.29 | 4 3.08 | 3 4.23 | 7 8.01 |
37 | 兵七 | 2.14 | 8.06 | 6 7.26 | 7 6.02 |
38 | 半七 | 下々畑 5.00 | 1 9.19 | 5 6.03 | 7 5.22 |
39 | 又右衛門 | 3.11 | 0 | 7 2.14 | 7 2.14 |
40 | 紋右衛門 | 1.00 | 1 5.12 | 5 6.29 | 7 2.11 |
41 | 伊右衛門後家 | 4.19 | 7.22 | 6 3.20 | 7 1.12 |
42 | 武兵衛 | 4.27 | 1 7.26 | 5 1.27 | 6 9.23 |
43 | 六右衛門 | ナシ | 1 8.00 | 5 0.10 | 6 8.10 |
44 | 九右衛門 | ナシ | 3 0.18 | 3 6.08 | 6 6.21 |
45 | 正福院 | 2.28 | 1 5.13 | 5 1.06 | 6 6.19 |
1.10 | |||||
46 | 甚兵衛 | ナシ | 7.13 | 5 3.07 | 6 5.20 |
47 | 市郎兵衛 | 3.18 | 10.06 | 5 4.19 | 6 4.25 |
48 | 八左衛門 | 下畑 8.12 | 7.22 | 4 9.21 | 5 7.13 |
49 | 与八 | 3.12 | 0 | 4 2.15 | 4 2.15 |
50 | 武左衛門 | 下々畑 4.25 | 7.02 | 3 5.08 | 4 2.10 |
51 | 金蔵 | 1 0.15 | 1.05 | 4 0.27 | 4 2.02 |
52 | 新兵衛 | 2.05 | 0 | 4 1.28 | 4 1.28 |
53 | 杢右衛門 | 4.20 | 2 4.12 | 1 4.01 | 3 8.13 |
54 | 惣吉 | 0.08 | 1 0.11 | 2 7.15 | 3 7.26 |
55 | 多七 | 4.20 | 6.08 | 3 0.21 | 3 6.29 |
56 | 治五右衛門 | 2.24 | 0 | 3 5.26 | 3 5.26 |
57 | 久兵衛 | 中畑 8.07 | 0 | 3 5.03 | 3 5.03 |
58 | 助右衛門 | 1.00 | 1 2.24 | 2 2.06 | 3 5.00 |
59 | 喜平次 | ナシ | 1 5.17 | 1 7.24 | 3 3.11 |
60 | 出口五右衛門 | 下畑 1.00 | 1 1.21 | 2 0.04 | 3 1.25 |
61 | 浅右衛門 | ナシ | 0 | 3 1.05 | 3 1.05 |
62 | 要右衛門 | 下畑 5.30 | 0 | 3 0.27 | 3 0.27 |
63 | 源七 | 御高札場 6.28 | 0 | 2 6.00 | 2 6.00 |
64 | 弥次兵衛 | 下々畑 1 0.02 | 0.13 | 2 5.12 | 2 5.25 |
65 | 伝右衛門 | 下畑 7.00 | 0 | 2 4.28 | 2 4.28 |
66 | 八郎兵衛 | 3.06 | 1 3.14 | 1 1.05 | 2 4.19 |
67 | 惣七 | 2.28 | 2.06 | 1 8.28 | 2 1.04 |
68 | 重右衛門 | 2.00 | 1 1.02 | 6.19 | 1 8.01 |
69 | 政右衛門 | 2.24 | 3.25 | 1 3.26 | 1 7.21 |
70 | 丈右衛門 | 6.00 | 4.08 | 1 1.22 | 1 6.00 |
71 | 善右衛門 | 0.15 | 0 | 1 5.21 | 1 5.21 |
72 | 与七 | 2.24 | 0 | 1 3.08 | 1 3.08 |
73 | 勘左衛門 | ナシ | 0 | 1 2.18 | 1 2.18 |
74 | 惣左衛門 | 下々畑 1 3.18 | 0 | 1 2.16 | 1 2.16 |
75 | 治右衛門 | ナシ | 0 | 1 1.05 | 1 1.05 |
76 | 長右衛門 | 2.05 | 8.08 | 2.26 | 1 1.04 |
77 | 重左衛門 | 2.00 | 6.00 | 5.01 | 1 1.01 |
78 | 喜兵衛 | (善八の高に入る) | 0 | 9.29 | 9.29 |
79 | 平蔵(2の父) | -- | 8.20 | 0 | 8.20 |
80 | 七兵衛 | 6.00 | 0 | 7.08 | 7.08 |
81 | 太平次 | 4.20 | 0 | 7.05 | 7.05 |
82 | えん | 上畑 3.27 | 0 | 6.12 | 6.12 |
83 | 彦八 | 下畑 5.28 | 0 | 5.28 | 5.28 |
84 | 清右衛門忠右衛門いん居 | 4.00 | 0 | 5.05 | 5.05 |
85 | なか | 下々畑 5.04 | 0 | 5.04 | 5.04 |
86 | 大日坊 | -- | 0 | 2.12 | 2.12 |
計 | 2 3 7.13 | 19 1 7.13 | 70 1 9.06 | 89 3 6.19 |
(名主)仁右衛門 万右衛門 屋敷持 77(1寺を除く) (組頭)五左衛門 久八 磯右衛門 善八 無屋敷 8 (百姓代)惣八 |
表―31に見るように、元禄期(一六八八~一七六三)に八七町六反八畝六歩あった耕地は、八九町三反六畝一九歩となり、わずか一町六反八畝一三歩の増加にとどまっている。慶安元年より元禄期迄の約五五年間に三町八反七畝余の大開発に比べると、当村でも、この期間は耕地開発が停滞した期間である。これは幕府の方針が開発抑制の方向に転換したためであることは先述の通りである。特に屋敷地が慶安に比して二反二畝余の減少となり、水田もまた七反余が減少している。江戸初期には「新田開発」の文字が示すように、耕地開発の重点は圧倒的に水田におかれていた。しかし、地理的条件の限度を越えた水田造成は、「水便の地」を得られないまま、きびしい用水規制におさえられて、「田、畑成(はたなり)」の運命をたどったものと考えられる。江戸初期のブームに乗って盛んに造成された水田が、幕末に減少の一途をたどったのは、こういう事情によるものである。
表4-31 脚折村耕地の変遷 |
地種 | 屋敷地 | 田 | 畑 | 田畑合 |
年代 | ||||
町反畝 歩 | 町反畝 歩 | 町反畝 歩 | 町反畝 歩 | |
慶安元年(1648) | 2 5 9.14 | 19 8 8.03 | 61 3 3.08 | 83 8 0.25 |
元禄期(1688~1703) | 2 6 1.09 | 19 7 1.29 | 67 9 6.07 | 87 6 8.06 |
文化・文政(1804~29) | 2 3 7.13 | 19 1 7.13 | 70 1 9.06 | 89 3 6.19 |
増減 | 減 | 減 | 増 | 増 |
(慶安→文政) | 2 2.01 | 7 0.20 | 8 3 5.28 | 5 5 5.24 |
耕地保有状況からみた階層構成(表―32)は、五反以上が四八人(五六%)で過半数を占め、安定した経営を行っている。五反未満が三八人(四四%)もいるが、一反未満の水呑層は九人で、約一割である。彼らは一町以上の高持層二七人(三二%)に依存して生計を立てていたものと思われる。屋敷持は七四人(八七%)を占めて、ほとんど九割の百姓が屋敷をもつようになっている。無屋敷は一一人(一三%)と少なくなっており、九人の水呑層の六人までが屋敷をもつている。残り三人は高持層の隠居と、修験である。
表4-32 脚折村階層表 文化八年(1811)~文政四年(1821) |
2町以上 | 2町~1町 | 1町~5反 | 5反~1反 | 1反~0 | 計 | 屋敷持 | 無屋敷 |
10人(12%) | 17人(20%) | 21人(24%) | 29人(34%) | 9人(10%) | 86人 | 79人(91%) | 8人(9%) |
48人(56%) | 38人(44%) |
村の階層構成について、寛政三年(一七九一)の「明細帳」で、名主は次のように報告している。
「勝(すぐ)れ候持高(マヽ)百姓御座なく候」と前提した上で、
四町四・五反迄 一五人
三町~三町四・五反迄 二〇人
一町~一町四・五反迄 二四人
計 五九人
(六六%)
四反・五反の水呑百姓 三〇人
(三四%)
合計 八九人
この分類と比較するために、文化・文政期の名寄帳を同様な方法で分類すれば次のようになる。
五町以上~五町三反迄 二人
三町以上~三町五反迄 三人
一町以上~三町未満迄 二一人
五反以上~一町未満迄 二一人
計 四七人(五五%)
五反未満の水呑層 三八人
(四五%)
総計 八五人(一寺を除く)
なお、その後の変化を知るために、明治初年の農民階層分化(※註1)の状況を、同じ規準で表示すると次のようである。
四町七反一畝~三町五反八畝 二人
三町以上~三町五反迄 〇
一町以上~三町未満迄 三二人(一寺を除く)
五反以上~一町未満迄 一一人
計 四五人(五二%)
五反未満の水呑百姓 四二人(四八%)
総計 八七人
以上、三つの統計が示すように、当町内では上層農家の耕地集積が進まず、そのため「勝れたる高持百姓」は幕末に至るまで出現していない。逆に、彼らの保有耕地は減少する傾向を示している。それは、当町の地理的状況から、商業的農業が未発達に終ったからである。
当町は、武蔵野西部の外秩父に近い畑作地帯であり、「川越御城へ道法(のり)二里余、江戸日本橋まで、上板橋通り十二里余」の距離を隔て、交通、運輸の便も悪く「津出しの新河岸へ四里、新河岸より江戸まで二十五里」という舟運の不便さであった。従って栽培作物も「前栽(せんざい)物(青物・野菜)江戸向け、ならびに近在市場へ出し申し候品御座なく候」(文政三年「明細帳」)という純粋の農村で、農民は父祖伝来の米麦の主穀生産に専念していた。商品作物の生産や商品流通の世界に踏み入れることも少なく(絶対ないとはいえないが)、「畑作の儀、大麦・小麦・芋・粟・ひえ・蕎麦・小豆・岡穂(おかぼ)(陸稲)・菜・大根の類作り申し候」(同)という作物を栽培し、「麦・雑穀の比重が高く、畑作主穀生産地帯の性格の強い(※註2)」農村であり、「江戸への物資供給や、近くの城下町(川越)や宿場町(坂戸)の前期的資本の収奪の影響もあまり強くなく、商品生産も、農民層の分解も停滞的(※註3)で」あった。
文化・文政期と明治初年を比較して、その増減をみると、次のように変化している。
三町以上 三人減
一町以上~三町未満 十一人増
五反以上~一町未満 一〇人減
五反未満の水呑百姓 四人増
この分類は村内農民だけの保有高を示したもので、他に村外の耕地保有者が三四名ある。三反九畝の関間新田半三郎を筆頭に、近隣一一か村の保有者が零細な耕地を登録されている。三町以上の上層農民や、五反以上~一町未満の下層農民の保有耕地の減少は、一町以上~三町未満の保有者が一一人も増加したのと、村外耕地保有者の手に渡ったものであろう。その原因は質流れによるものか、或は売却によるものかは、時代が明治にわたっているので明らかでない。
次に高倉村の宝暦四年(一七五四)の「明細帳」によると、「勝れ候高持百姓御座なく候」と前提し、
二町~五町 四人
五反~一町二反 二〇人
計 二四人(四三%)
二反~四反 二〇人
一反 一〇人
水呑 二人
計 三二人(五七%)
総計 五六人
脚折村では、五反以上五九人(六六%)、五反未満三〇人(三四%)で、農民の三分の二が再生産可能であり、大高持の小作人にならなければ再生産できない貧農は三分の一である。高倉村では、五反以上が二四人(四三%)それだけこの村では小作人の比率が高いといわねばならぬ。
三ツ木村・太田ケ谷村・藤金村・上広谷村・五味ケ谷村については、それぞれ村の耕地保有情況に応じて異る階層構成を示していると思われるが、農間余業に乏しい当町内では、大した相違はなかったであろう。それを実証する資料がないのが遺憾である。
ちなみに、高倉村では無高の百姓を水呑とするが、脚折村では四~五反までも水呑の中に入れている。水呑とは水ばかり呑んで暮らしている百姓ということである。これで水呑には二通りの意味があることが分る。(イ)本百姓に対する言葉で、耕地をもたず、小作等によって生活をする者であり、百姓でありながら公には百姓とは認められなかったものである。(ロ)小高の百姓で、ばく然と貧乏百姓をさす場合である。高倉村では(イ)の意味に用い、脚折村では(ロ)の意味に使われた。隣村でありながら、このように不統一な使い方をしているのは、水呑という言葉が如何にばく然と貧乏百姓を指していたかを示すものである。
〔註〕
(1) 明治三年「名寄帳」坪内分、明治五年「名寄帳」金田分、坪内分の合計
(2) 長谷川伸三『近世農村構造の史的分析』
(3) 古島敏雄『近世日本農業の展開』