上層農家の地主手作

328 ~ 329
近世後期になると地主の手作経営に大きな変化が現われた。初期本百姓の手作経営は、譜代下人や、家長や主家の耕作や雑用に使用されていた無屋敷の隷属農民の門屋(かどや)・被官(ひかん)、また、単婚小家族で自立して再生産の不可能な零細農民の夫役(ぶやく)によって営まれていたのであるが、近世後期になると、小農自立が進行して、下人小作経営(※註2)の自立性が強化されるようになった。こうして、門屋・被官などの本百姓への上昇・独立、奉公人も譜代奉公人に代って年季奉公人が出現した。このような変化は、強い身分的制約にもとづく、安価な労力使用を困難にした。そして、労働力の使用も、次第に契約にもとづく賃金支配関係へと変っていった。
 この間の事情を、田中丘隅(きゅうぐう)の「民間省要」の説明によることにしよう。著者は八王子在の織物商人の子に生れ、のち川崎の田中氏の養子となり名主を勤めた。多くの農村関係の知識をあつめ、のち採用されて幕府の農村統治・治水工事を担当するに至った。この「民間省要」を著すに及んで抜擢されて代官となった。享保六年に著されたこの書は、元禄から享保にわたる南関東の実情を示している。享保初年の江戸周辺の経済的な動きが、地主手作を困難にし、小作人経営が一般化したことを述べている。「国土の田地というもの、人々その持主の自手作(地主手作)すということは、十にして漸く一、二ならではなきものなりと知るべし。」「天地は三十年にして改まるとかや、世と共に変じて歳々年々、人皆入れ替り、他より他の手に渡して、今は昔草分(くさわけ)の百姓とても稀(まれ)に、開発の持主の持ち続きたるも少し。かつまた、百姓の田地二十石以上百石余の持高の者、十が一も自分の土地を手作するはなし。人を抱え、馬を求めて、なかなか作りしてあうものにあらず、小作に預けて他の手より米をとり、御年貢・諸役を勤むるなり(※註3)。」また、「俄に人を抱え、馬を求め、手作したる者も多し。人々手作してみて、さてさてあわぬこと目前たり。人馬・諸事入用の外、こやし代おびただし。」
 以上、地主手作経営の困難について、労働事情が変ったこと、肥料・農具等の物価騰貴を原因として挙げている。それに対応して、上層農は経営規模を縮小して、一般的には一町前後の家族労働を主体とする経営に移行した。そして、経営規模を越える保有耕地は、下層農や水呑層の小作地として、貸し与えた。その結果は、手作地の減少、小作地の増加となって現われた。しかし、当町内では大高持は一部を除いて、完全に小作料依存的な地主(寄生地主)にはならなかった。