第一節 地主と小作

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 高崎藩士大石久敬が寛政年間(一七九一―四)に著わした『地方凡例録(じがたはんれいろく)(※註1)』に次のように記述している。「小作というは、自分所持の田畠を、他の百姓へ預け作らせ、または、田畠を質に取り、元地主でも別人でも耕作いたし、小作年貢のほかに余米(よまい)・入上米(いりあげまい)(※註2)などといって、一反に何程と作徳(小作料)をきめて作らせるをいう」「預り小作いたし、年貢諸役を勤める上は、小作入上余米何程差出すべし。もし滞りし節は、何時なりとも地面取上げ申すべく、その節、一言の儀申すまじく」と書いた証文を差出す。小作の種類は次のようである。

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 名田小作は、地主の手余り地を小百姓に作らせるものである。多くは、下人を使役するため、恩恵として手余り地を小作させたので下人小作ともいう。年季を定めたものもあり無年季もあった。二〇年以上となれば永小作に準じた。永小作とは半永久的な耕作権をもつ小作権である。
 質地小作とは、借金のため質に入れた土地を質地といい、その質地で小作することである。この場合、金を貸した者を「金主」と呼び、土地を質入れした者を「地主」と呼んだ。質入主が従来通りその土地を耕作するのが「直小作」で、質入主以外の第三者が小作するのが「別小作」である。
 寛永二〇年以来、土地の永代売買はかたく禁止されていたので、貧農の金融方法としてこの質入れが盛んに利用された。しかし、「小百姓は貧しいから田地を質に入れて、借金・借米をするが、借りた人は油断多く、その利足が積もり積って、父祖伝来の田地を大百姓に取上げられ、大百姓はいよいよ大きくなって、後にはその村の田地の過半は、大百姓のものとなり、小百姓はわが田地がなくなり、大百姓の地を作って年貢を八重(やえ)に出し、難儀いよいよ強し」(「治邦要旨」)。もともと地主が借金をするのは、貧困にもとづくものであり、その上に小作料は高率であったから、地主が自分の土地を「請戻し」をすることは容易でなかった。そこで、質地関係が一般に普及するにつれて、地主が年季内に請戻しすることができず、そのために質地が抵当流れになるという「質流地」が増大してきた。それは土地が金主の手に移り、耕作は金主の都合によって他の農民にまかせるという別小作となる。これは幕府の基本方針である田畑永代売買禁止令を事実上否定することになる。かくして、幕府は一方では土地の永代売買を厳重に禁止しながら、農民の困窮のため、それは主として重い租税の怠納を避けるためであるが、質流れの方法をとって、事実上、土地が売買されることを認めざるをえなかったのである。
 当町でも質地証文は旧名主宅に数多く保存されている。それは名主が質地を集積するため金貸しをしたためではなく、質地関係の成立は、名主の確認を必要としたので、名主が押印した証文をそのまま預かったからである。「田畑質物書入れ候儀、名主、五人組加判なく、相対(あいたい)(当事者だけが談合して)に証文仕り候わば、双方曲事(くせごと)に仰せ付けらるべく候」(脚折村五人組帳前書)。
(甲) 質地証文
   入置申質地証文之事
 一上田 四畝弐拾弐歩 名所 北口
   代金弐分弐朱 外ニ弐朱也 但シ江戸文字金也
 右は御年貢に差詰(つま)り、当酉(とり)の十二月三日より、来る戌(いぬ)の三月迄、貴殿へ質物に相渡し、代金弐分弐朱也、慥(たしか)に請取申し候。御年貢・諸役の儀は、毎年地主方へ相渡さるべく候筈(はず)。尤も年限相立ち、金子(きんす)返済致し候はば、地所御返し給わるべく候。もちろん金子返済なりかね候はば、何年も御手作り致すべく候。脇より故障これなく候。後日のため仍(よ)って件(くだん)の如し。
  酉(天保八年)十二月     脚折村
                  地主 平兵衛
                  組合証人 要右衛門
                  組頭 善八
  同所
   正福院殿
(乙) 流地証文
   相渡し申す流地証文之事
  一 中野 五畝歩     名所 山田
  一 下野 三反弐拾壱歩     同所
  一 下畑 弐畝拾弐歩      字針売
   此代金壱両弐歩   但、文字金也
 右は当辰五か年以前、貴殿へ質物に入れおき申し候処、請け出し申すこと相成り申さず候に付、この度、流地に相渡し、書面の金子残らず請取り申すところ実正に御座候。然る上は向後、一 御公儀様御年貢・諸役等御勤めなされ、貴殿の持高へ入れられ、永々名田(みようでん)になさるべく候。この畑につき親類・縁者は申すに及ばず、脇よりかまい少しも御座なく候。もし滞(とどこお)る者御座候はば、地主・加印の者いず方迄も罷(まか)り出で急度埒(きつとらち)明け、貴殿へ少しも御苦労にかけ申すまじく候。後日のため流地証文仍(よ)って件(くだん)の如し
   文化五年辰         脚折村 地主 兵右衛門
    極(ごく)月日          証人 六右衛門
                     組頭 善八
  前文の通り相違これなきにつき、奥印せしむる処件の如し
                     名主 万右衛門
        同村織右衛門殿
 脚折村に残る質地関係の証文は三七通であるが、これは名主宅に保管されたものだけであるから、実際はもつと多数に契約が交され、それは結局、流地になったことと思われる。それは、名寄帳の各ページ毎に、貼紙(はりがみ)を張って地主が変更されていることでも分る。
 質地に出したり、流地になったりする原因は、いずれも貢租怠納を避けるためであり、「御年貢に差詰(さしつま)り」とか、「この度、年季明け候えども、請戻し儀、出来かね候に付無拠(よんどころなく)」と書いてある。