第二節 小作人

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 質地が流れると、地主は直小作をすることになる。すなわち今迄の地主が年貢負担の重圧に耐えないで貧困のあまり小作人となることである。また小作には地主の手余り地を耕作する名田小作もある。その比率がどれ程かは正確には分らないが、幕末には質地小作が一般に展開したといわれる。それは幕末農村が一般的に荒廃した現象を示すものといわざるをえない。
 文政三年(一八二〇)の脚折村明細帳によって、田畑の収穫量・貢租負担・小作料を表―33で示す。
表4-33 収穫高と小作料・貢租 脚折村
文政三年(1820)
石盛田畑取穀(一反に付)小作料(一反に付)貢柤(反当)
上田10籾1石~1石6斗米5斗~6斗5升(40%)5斗6升
中田99斗~1石5斗5斗~6斗(40%)5斗
下田77斗~1石2斗4斗~5斗(41%)4斗3升4合
下々田65斗~8斗3斗~4斗(50%)3斗6升5合
上畑7麦5斗~1石銭800文~1貫永125文
中畑64斗~1石600文~900文115文
下畑43斗~1石500文~700文94文
下々畑32斗~5斗300文~500文59文
(註)小作料率は取穀と小作料の最高

 また、脚折村名主田中佐平太の万延元年(一八六〇)の「田畑作入揚覚」によれば次のようである。
  本名所〓花(うつぎばな) 但し清水也
   七升蒔(中田八畝四歩)
  一 米弐俵 但し四弐入   小右衛門
    弐斗二升引(小作人取二六%)
   和田橋四升蒔
  一 米五斗       高倉 孫兵衛
    米三斗五升取(地主七〇%取)
 文政三年の「明細帳」では、小作料はだいたい四〇%で、下々田だけが五〇%であり、地主取分は六〇%ないし五〇%であるのに対し、万延元年の「入揚帳」では、地主取分七〇%ないし七五%と上昇している。このことは、時代が四〇年もたっているので、自ずから地代が騰貴したのか、それとも、幕末農村荒廃のため、本百姓の小作人が激増したためであろうか。
 地主取分の中には、年貢米と小作料(地主得分)の二つが含まれていたので、小作人はこの両者を一括して地主の庭先へ運んだ。これを「庭先納付」という。本百姓が年貢・諸役を小作人に代って納付するのが一般的な原則だつたからである(※註3)。
小作証文
 (甲) 小作証文の事
  一、中田五畝十二歩のところ、我ら請合い、御年貢御上納仕り、残米にて年々利足弐割半の勘定にて相済まし申すべく候。もし済ましかね候はば、御取揚げ、御手作りなさるべく候。仍(よ)って小作証文件(くだん)の如し。
    明和四年(一七六七) 上広谷小作人  善兵衛
     亥拾月       五味ケ谷村名主 藤兵衛
         上広谷村八十市殿
 (乙) 小作証文の事
                石井村にて
  一、田合壱反拾六歩     字天水
  一、畑合壱反五畝歩      同所
  右は貴殿所持地の内、我等方にて小作仕り候ところ実正に御座候。然る上は、右田畑作徳の内、小作年貢として年々米壱石七升・銭七貫八百文づつ相違なく相送り申すべく候。後日のため小作証文仍て件の如し
                嶋田村
   嘉永二酉年(一八四九)   小作人 政五郎
     三月日         証人 郡造
       大塚野新田
           宇多次郎殿