さて、小作人も預かり作りて益少なしといえども、その所に生れて田地を持たざれば、他に稼ぎもなく、身の油を搾り、自身の骨に代えて、人に遣わるる者の一俵余ずつ多く作り、肥(こや)しも辛苦して取入れ、漸く渡世することにて察し知るべし。(民間省要)上五)
これは、享保時代に一般化した小作人の生活を、江戸周辺の農村の事情に詳しい田中丘隅が述べたものであるが、同書は更に小作人の食料について左の如く記している。
田方に生るる百姓は、雑炊にしても米を食うことあれど、山方・野方に生れては、正月三か日といえども米を口に入るることなき所多し。粟・稗・麦などを食に炊くとても、菜・蕪(かぶら)・干葉(ひば)・芋の葉・豆ささげの葉、その他あらゆる草木の葉を糧(かて)として、穀物の色は見えぬばかりにして、しかも朝夕飽くほどのことなく、漸く日のうち一度ずつならではこれを食うことなく、その他は前にいう粥(かゆ)の類にて日を送る。……かく恐ろしき物を食とし、しかも明け七ツ(午前四時)より起きて骨を折り、夜九ツ(午後十二時)まで働きて、縄をない草鞋(わらじ)を造る。その辛苦常ならずば、一日もその内に住む者あらんや。都に育ちては今ようの咄(はなし)しだに、一生耳に聞くこともなき人は、誠とも思わじ。(「民間省要」上四)
小百姓の食物については、脚折村名主は寛政三年の「明細書上帳」で次のように報告している。「百姓夫食(ぶじき)(農民の食物)の儀、芋・葉・大根・粟・稗・麦、これを食い申し候。」これは脚折村だけでなく、いずれの農村でも同様な報告をしているので、当時の農村一般の小農民の実状でもあったのである。
もっとも、幕府の方針も、百姓は米作に一生懸命に働かねばならぬが、その米を自分で食ってはならぬことを、御触書(幕府の法令)で繰返し布達している。「百姓は分別もなく、末の考えもなきものに候故、秋になり候えば、米・雑穀をむざと(むやみに)妻子にもくわせ候。いつも正月二月三月時分の心をもち、食物を大切に仕るべく候に付、雑穀専一に候間、麦・粟・稗・菜・大根・その外何にても雑穀を作り、米を多く食いつぶし候わぬように仕るべく候。」(「慶安御触書」)
このように、米を多く食べないようにという意味は、それが年貢となるからである。しかし大部分の農民にとっては、こうした禁令の有無に抱わらず米を常食とすることは不可能であった。年貢の米納はもとよりのことだが、金納といっても、別段貨幣収入があるわけもないので、米納の残りの米を売って金に換えるだけのことであった。それで中農以下は飯米として残る余米は極めて少なかったのでいやおうなしに雑穀に頼る他はなかったのである。