この要蔵と申す男、慥(たし)かなる者に御座候に付、我ら請け合い御奉公に出し、当酉(とり)(寛政一三年)二月より来る戌(いぬ)(翌享和二年)二月二日迄、壱季居りに相定め、御給金として弐両弐分弐朱下され只今慥かに請け取り申すところ実正なり。ただし御仕着(しきせ)の儀は夏木綿単物(ひとえもの)一つ、冬木綿袷(あわせ)一つ下さるべき定めに御座候筈。この者、取り逃げ、欠落(かけおち)仕り候はばその雑物・その身共に三日の内尋ね出し、急度(きつと)勤めさせ申すべく候。もしあい見え申さず候はば、人代りなりとも、金子なりともお望み次第急度埒(らち)明け申すべく候。万一この者長煩(わず)らい仕り候か、又は頓死自滅過ち等仕り候とも、相違なく我ら方へ引請け申すべく候事。
一 御公儀様御法度の儀は申し上げるに及ばず、御家の御作法通にても急度相守り申すべく候。
一 この者宗旨の儀は、代々真言宗にて、同村善能寺旦那に紛(まぎ)れ御座なく候。寺請状御用次第何時なりとも急度差出し申すべく候。後日のため請状仍って件の如し。
寛政十三年(一八〇一) 脚折村 人主 与八
酉二月 請人 金七郎
同村
平蔵殿
(乙) 御請状の事
このさんと申す女、慥かなる者に御座候に付、我らども御請人に罷(まか)りなり、御奉公(に)出し申すところ実正に御座候。但し年季の儀は寅(とら)(明和七年)の二月より、卯(う)(翌明和八年)の二月二日迄相定め申し候。御給分として金子(きんす)三分慥かに請取り、御奉公仕るところ実正に御座候。御仕着の儀は夏物単一つ。冬袷一つ下さるべく[ ](欠)候。御奉公の内、取逃げ・欠落(かけおち)仕り候か、三日の内尋ね出し、急度埒明け申すべく候。又は不奉公仕り候か、長煩らい仕り、御用に立ち申さず候はば、その身に増さる人代りなりとも又は金子にても、貴殿お望み次第埒明け申すべく候。その節相違なる儀申すまじく候。
一 御公儀様御法度(はつと)の儀は申すに及ばず、何にてもお家の御作法相背(そむ)き申すまじく候。恙(つつが)なく相勤め申し候はば、本金お切り、お暇申し請くべく候事。
一、宗旨の儀は、代々真言宗にて上広谷村正音寺旦那に紛れ御座なく候。御法度の切支丹宗門にては御座なく候。もし左様申す者御座候はば、我ら何方(いずかた)迄も罷り出で急度申しわけ仕るべく候。
後日のため請状仍って件の如し。
明和七年(一七七〇) 五味ケ谷村 人主 林左衛門
寅二月十五日 請人 作右衛門
中小坂村七郎兵衛殿
以上、(甲)(乙)二つの奉公人請状を見たのだが、この請状の契約責任者は「請人」であって、「人主」ではない。請人は奉公人が欠落(逃亡)した場合、本人を探し出したり、もし長煩いして奉公が勤まらなくなれば、代人を出すか、給金を返還するかして、請人として責任を果さなければならない。
(甲)の下男要蔵も、(乙)の下女さんも一季居りの年季奉公人であり、二月から翌年の二月二日が出替期となっている。給金は男は二両二分二朱、女は三分を前渡しされる。男の二両二分二朱は分に換算すると一〇分二朱(四朱が一分となる)となるから、女の三分は男の三分一以下となる。
これらの年季奉公人は、傭い主の家に同居し、昼間の作業の他に、夜間にも与えられた仕事をしなければならなかった。土間の行灯(あんどん)の明りの下で、縄をなったり、草履(ぞうり)や草鞋(わらじ)を作ったりした。これらの作業は主家の家法として定められていた。奉公の契約書にも「お家の作法」に従うと明記されており、その作法の中にはこの夜業(よなべ)も奉公人の義務の一つであった。
奉公人と主人の家族との間には、その地位と待遇に雲泥の相違があった。下女は「梅」とか「松」とか仮称で呼ばれ、本人が代っても下女の名はいつも同一であった。男もまた同様である。食事も家族とはかけ離れた場所で粗悪な食物をぼそぼそと食べ、寝場所も納屋の天井などが特別に当てがわれ、家人と同じ畳の上で寝ることはなかった。
これらの待遇は、主人の家族と同居するために、いっそうその差別が目立った。このような隷属的扱いを受けるよりも、小作人の生活がいかに貧しく苦しくても、下人の生活よりもまだましであるという動向が時代の趨勢(すうせい)となってきたのであった。
下人奉公は江戸初期から年季奉公の形態をとるわけではなかった。だいたい三つの段階があったといわれている。すなわち、
譜代奉公人→質奉公人→年季奉公人である(※註4)。