幕府は江戸初期には、奉公人の雇傭期間の短いことを原則とした。元和五年(一六一九)には、
一 人売買御制禁の上は、或は譜代、或は我子たりというとも、売り候あたい(値)ほど、売人・買人双方よりこれを出すべし。則ち売れ候者は取放ち、其身は覚悟に任ずべし。
一 長年季御停止の上は、自然これを猥(みだ)す輩(やから)は、其人の分限に応じて双方より過料を出すべし。
という制禁を布告した。家光の寛永一〇年(一六三三)には、
一 人売買、一円停止たり。もし猥す輩これあるに於ては、其軽重をわかち、或は死罪・籠舎(ろうしや)(牢に入れる)・過銭(罰金)たるべき事。
一、男女抱えおく年季、拾か年を限るべく、拾年を過ぐれば曲事(くせごと)(犯罪)たるべき事。
という布告が発令され、人身売買の禁止、年季奉公も長年季を禁じられ、一〇か年が幕府の定法となった。ところが、延宝三年(一六七五)に至って、諸国洪水で諸民の困窮を救うためという理由で、譜代奉公と長年季奉公が臨時的に許可された。更に元禄一一年(一六九八)には、一〇か年に定められ年季制限を撤廃し、譜代に召し使うことも相対(あいたい)(談合)次第たるべしということになった。これは、漫性的な飢饉で困窮した貧農を救うために、譜代関係を復活させて、彼らを地主の庇護(ひご)の下において、土地から離れるのを抑止しようとする意図であった。しかし、せっかくの幕府の方針も、譜代下人が次第に自立して、小百姓となることにより、この制度も時代の下るに従って解消し、次の質奉公人がこれに代るようになった。