肥料について

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上層農家の田中家の購入肥料は、糠(ぬか)・粕(かす)(種粕・酒粕)・大豆・灰の四種であるが、糠一〇俵と酒粕六俵を高倉の山崎屋亀吉から、糠四俵を猪ノ鼻(川越)の遠州屋から、田肥としての大豆一石九斗八升と追肥用の大豆約六俵半を遠州屋および坂戸の秋山から購入している。また、種粕(油粕)八枚を込堂(浅羽)の仙次郎方から、干鰯(ほしか)一俵を猪ノ鼻遠州屋から、灰を坂戸(善太夫)から仕入れている。もっとも、万延元年より一五年さかのぼる弘化二年(一八四五)の「肥覚」には、干鰯の記入がないから、干鰯の使用は弘化年代以後に始まったと思われる。
 次に、上層農家田中家の肥料の使用状況は別として、一般農家の肥料はどうであったか、「明細帳」の記録によると、
 下新田村 田畑肥      灰粉・糠(寛保三年)
 高倉村  田畑肥      灰・小(粉)糠(宝暦四年)
 同新田  畑肥       灰・糠(同)
 脚折村  田肥(四月―五月)灰・水肥(寛政三年)
      田畑肥      吹糠・水肥(天保三年)
      田肥       灰・水肥(天保一四年)
      畑肥       糠・灰・下肥・馬屋肥
      田肥       大豆・干鰯(ほしか)(文久元年)
 これら四か村で使用する肥料は、当地方一般に使用されたと考えられる。水肥(下肥)・馬屋肥(厩肥)は自然肥料であるが、灰・糠大豆は自給か、それとも購入か、いずれとも断定できない。それは、経営規模の大小によって異なるわけだからである。脚折村の干鰯については、田中家の万延元年に後れることわずか一年で、本百姓の間でも使用されるようになったのである。
(水肥) 糞尿を生(なま)のままに使用する「生肥(なまごえ)」に対して、糞尿を腐らして、水で薄めたもの。

(厩肥(きゅうひ)) 牛馬小屋の糞尿と飼料の残滓、それに敷草の混ったものを腐敗させた肥料である。

(糠) 糠と灰とは重要な肥料であったが、摂津糠・尾州糠・地廻り糠があり、殊に摂津糠が第一等の肥料と歓迎され、またたく間に広まり、長く使用されたという。その名は恐らく摂津地方で酒造の際にできる糠であったから、かく名づけられたのであろう。

(油粕) 菜種・胡麻・荏(えごま)の油をしぼる際にできる粕である。幕末には松前の鰊(にしん)粕が重要な肥料となった。

(灰) 藁灰が一番よいとされた。従って水田地帯に多く生産された。しかし、地元で灰の生産されるのはごく僅かで、多くは他国からの移入にまった。川越五河岸(がし)の一つである寺尾河岸の問屋蔦屋(つたや)が、天保七年(一八三六)に取扱ったこの地方に入る商品の総水揚件数五七一件のうち、糠は四七・一パーセント、灰は一七・七パーセントで、年間、糠は一万一、四七七俵、灰は五、〇二二俵に上っている。

灰の用途はさまざまであるが、当地方の蒔田の場合、種籾を蒔き入れるとき、灰と交ぜて蒔くのが有効とされた。

(干鰯(ほしか)) 鰯(いわし)や鰊(にしん)の脂をしぼって乾したもので、肥効が非常に高く、江戸時代に乾燥肥料としては代表的な肥料であった。しかし、高価なものだから、作物を売って干鰯以上の現金を得なければ経営が成立たない。従って、干鰯多用地域は商品生産の盛んな地域であった。これとは逆に、いくら生産地に近くても、商品生産の度合いの低い地域ではあまり用いられなかった。当地域では、紅花以外には商品作物の栽培に力を入れなかったので、干鰯の産地である九十九里浜に近くても利用されることはなかった。幕末近くになってやっと干鰯が導入された。