一 秣(まぐさ)取り、先規は大塚原・天沼原に刈取り申し候。只今は刈場御座なく候
これは、大塚原が享保一〇年に、天沼原が宝永三年(推定)に開発されて、大塚野新田・天沼新田となり、秣場が消滅したことを指している。当町内では、江戸初期にすでに上・中・下新田村と町屋村が開発され、享保以来も飽くなき開発が続行され、入会秣場は縮少・消滅の余儀なきに至った。当然、次の対策は、残る秣場の入会的利用を解消し、金肥の導入をはかることである。享保六年(一七二一)に、代官田中丘隅の著わした「民間省要」に「古(いにし)えより、秣の馬屋肥にて耕作を済ましたるが、段々金を出して色々の糞(こや)しを買う事、世上に専ら多し。」と金肥導入が始まったことを述べている。
しかし、明治初期の脚折では、水田の肥料として青草が大切な役目を果していた(※註2)のをみると、刈敷は依然重大な肥料であったことが分る。
江戸時代の初期には、刈敷採取のために広大な原野が広がっていた。その原野の入会(いりあ)いをめぐって出入(でいり)(訴訟)が起った。その出入文書とそれに添えた地図(※註3)によると、高倉・三ツ木・脚折三か村の周囲には、次のような入会野があった。
(一) 九か村に三ツ木村を添えた十か村入会野(※註4)。(日光街道の東、三角原に当る)
(二) 九か村に高倉村を添えた十か村入会野。(日光街道の西、高倉の水田際まで)
(三) 三ツ木村一か村入会(三ツ木新田に当る)
(四) 笠幡村・高萩村両村の入会野(下高萩新田に当る)
(五) 高麗寺野
これら入会野は、今の脚折の才道木から高萩の小畔(こあぜ)川までの、日光街道の両側に広がっていたから、いかにも広大な原野が秣場(※註5)として利用されていたのである。この広大な原野は徒らに放置して、草茫々(ぼうぼう)とさせておくためのものではなく、その草が水田の肥料として最も重要なものであった。それで延宝四年出入(訴訟)が起ったのである。
この「草刈場出入」の訴訟人は、浅羽村・厚川村・茅方村・鍛冶屋村の名主である。相手方は脚折村喜兵衛・高倉村庄兵衛・勘左衛門の三人である。出入に及んだ理由は、先頃から、厚川村・浅羽村・鍛冶屋村が入会いで馬草刈りをしてきたのに、脚折村が刈らせないという方針に改め、大勢の百姓が出て来て、理不尽にも鎌を取上げ、草刈場へ入れてくれない。それでは、前々訴訟があったとき、この三か村の草刈場だから高倉村と一緒に馬草刈りをせよという判決に背くのではないか。家康公御入国以来、高倉村の田畑は浅羽・厚川・鍛冶屋・森戸の四か村で持ち来ったのであり、今から三七年以前に、浅羽村・厚川村の表に新田を造れと仰せられたので、高倉原で馬草を取ってきた。ところがその後になって、浅羽村・厚川村の表の芝間(しばま)(雑草地)に、新屋敷・新畑・新林を造れと仰せつけられたので、残る少しばかりの芝間で馬草取りをしてきたのである。それさえもこのたび一切留められてしまった。これでは人馬共に困窮仕る次第である。先頃のように馬草刈りができるように、御奉行所へ脚折村喜兵衛・高倉村庄兵衛・勘左衛門を呼びつけて仰せつけられたい、という趣旨である。
浅羽・厚川・鍛冶屋・森戸・茅方の五か村は純粋な水田地帯であり、秣場(まぐさば)を村内に求めることは不可能である。刈敷(かりしき)や厩肥(きゅうひ)を作るための秣は、高倉原に依存しなければ水田経営は成立するはずがない。このため、必死の思いをこめて訴訟に踏み切ったものと思われる。この訴訟がわれわれに知らせるのは、当時の水田経営には肥料としての秣が、訴訟方・相手方のいずれにも、出入に踏み切るほど重要であったことである。
この馬草場出入のあった延宝四年をさかのぼること二四年、慶安元年(一六四八)の検地帳に、町内各村々の原野の面積が記されている。
慶安元年(一六四八) 脚折村 一六町二反一畝余
高倉村 二二町四反五畝余
三ツ木村 三〇町七反二畝余
太田ケ谷村 五四町五反二畝余
寛文九年(一六六九) 同村 五九町七畝余
明和四年(一七六七) 五味ケ谷村 二三町八反二畝余
脚折村の名主田中家は、幕末の嘉永三年(一八五〇)に、一町一反五畝の原野をもっていた。この時代には、原野はもはや入会でなく、入会権が分割されて、個人の持分となっていた。