年貢は毎年、領主や代官から米の収穫期(出来(でき)秋)になると、年貢割付(わりつけ)状(年貢免状)とよばれる通達が、村ごとに出される。これには、田畑屋敷などの各地目に分けて、それぞれの等級ごとに年貢率(免ともいう)を乗じ、年貢を算出してある。この年貢割付状を受取った村では、この割り当てられた年貢高を、個々の農民の持高に応じて、割りつける。この年貢率が高いために農民の生活に深刻な影響を与えたことは、質地証文の冒頭に、質入れの理由として、「我ら所持の田畑、年貢に差しつまり……」というきまり文句が書かれていることでも知られる。
百姓の生活は、富農といわれる身分の者は別として、並の本百姓は辛苦に満ちた労働の明け暮れであった。朝(あした)には露を踏んで野良(のら)に出かけ、夕(ゆうべ)には星をいただいて家路をたどる、超勤務時間の労働であり、また、盛夏には流れる汗を拭き拭き、厳冬にはしたたる鼻水をすすりすすり、厳しい仕事がはてしなくつづく。骨身に代えて「取り得た所を多く貢(みつぎ)に納(い)れ、常に領主・地頭の掟(おきて)を守り、歩役(ぶやく)を勤め、種々の課役を務め、五穀・雑穀その外すべて国用の諸品を生みなし、実に世の中を悉(ことごと)くみな請負いたる者なり。畢竟(ひつきよう)、世の中は皆この民に養わるるなり。当世の治平に誇り、安穏に暮す人々のその裏を勤めに致して、福徳を産み、栄花を生ずるなり。かかる太平の代も、年々歳々一日片時も民よくその業を勤むるが故なり。誠に国の本、世の宝というは百姓なり。依って天下国家を治むるに、民を安んずるを第一の心とするなり」(『世事見聞録』二の巻)
このような「世の宝」の百姓の待遇は牛馬を使うのと同じ待遇であった。「百姓というもの、牛馬にひとしく辛き政(まつりごと)に重き賦税(ふぜい)をかけられ、ひどき課役をあてらるるといえど、更に云う事ならず。これがために身代を潰(つぶ)し、妻子を売り、或は疵(きず)を蒙(こうむ)り、命を失う事限りなしといえど、不断、罵詈打擲(ばりちようちやく)に逢うて生を過ごす。いか様の非道をしても、官人となれば、一俵の米を取っても君風に誇り、民家へ出てはよく百姓を睨(にら)むに、かがむのみなり。其外輩の官人は、多くは民間の卑賤(ひせん)より出て民間を攻むる。これ豆を煮て、豆の豆がらをたくがごとく皆爾(しか)るなり。たとえば牛馬に重荷を負わせて打ちたたき、つまづけばなお怒って大鞭(おおむち)し、この畜生めと罵(ののし)るが如し。言う事なく、泣く事なし、百姓も相同じ」(「民間省要」上巻二)と、百姓が忍従して、苛酷な年貢に耐える相(すがた)を如実に描写しているが、それでは、年貢はどのような変化をたどってきたのであろうか。