吉宗は、定免(じょうめん)制(別項説明)を施行し、昔の六公四民までに年貢率を引上げることを理想としながらも、現実には五公五民を目標とし、「其村相応の御取箇(とりか)(年貢)」として、それ以上は年貢を引上げなかった(※註3)。
延享と宝暦の時代に、年貢率がピークに達しているが、これは例の勘定奉行神尾春央(はるひで)の活躍した時代と、次いで田沼時代といわれる時期である。その後は減少の傾向をたどり、寛政改革で増徴政策が再強化されたが、文政九年以後は再び低減傾向にむかい、やがて転落する幕府の運命とともに年貢率もまた低落した(図―2)。
図4-2 幕府領貢租率の変遷(毎10か年平均)
※は六か年平均
『日本経済史大系』近世(下)より作成