3 年貢率の変化

362 ~ 362
 先述のように、近世の初めには、「生かさぬよう殺さぬよう」という言葉が示すように、農民の労働の成果の全剰余労働部分を搾取し、ほぼ六公四民強という高率を課していたが、四代将軍家綱の初め頃からだんだんと低下し、五代綱吉の代にいたって二八・九パーセント(三公七民)に低下したと、新井白石は「折たく柴の記」に書いている。このような年貢収取率の低下、すなわち、農民にとって剰余労働部分の増加を押し止めようとし、同時に幕府財政の建直しをはかろうとしたのが八代吉宗の享保改革であった。
 吉宗は、定免(じょうめん)制(別項説明)を施行し、昔の六公四民までに年貢率を引上げることを理想としながらも、現実には五公五民を目標とし、「其村相応の御取箇(とりか)(年貢)」として、それ以上は年貢を引上げなかった(※註3)。
 延享と宝暦の時代に、年貢率がピークに達しているが、これは例の勘定奉行神尾春央(はるひで)の活躍した時代と、次いで田沼時代といわれる時期である。その後は減少の傾向をたどり、寛政改革で増徴政策が再強化されたが、文政九年以後は再び低減傾向にむかい、やがて転落する幕府の運命とともに年貢率もまた低落した(図―2)。

図4-2 幕府領貢租率の変遷(毎10か年平均)
※は六か年平均
『日本経済史大系』近世(下)より作成