脚折村の年貢率の変遷

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脚折村では資料が十分保存されていないので、残された資料によって、不完全ながら貢租一覧表を作製した。
 表―37の反取とは、年貢を徴収するさいに、一反あたりの年貢額を五斗・六斗ときめておき、それに全反別を乗じて全額を決定するための反当年貢米のことである。
表4-37 反取表
入間郡 赤尾村
年代西暦上田中田下田下々田平均資料
元禄十二1699石盛十二
取米6斗5斗5升5斗4斗5升5斗2升記録
高麗郡 脚折村
石盛平均年貢割付
宝永三1706取米4斗5升4斗3斗7升3斗4升3斗9升年貢割付
寛政三17915斗6升5斗4斗3升5合3斗6升5合4斗6升5合明細帳
天保三18325斗6升5斗4斗3升3斗6升5合4斗6升年貢割付

 元禄一二年の赤尾村を参考としたのは、村内に元禄期の資料がないためであるが、当時は脚折村も同じく川越城主柳沢吉保の領地であったので、年貢賦課も同一基準で行われたと考えられるからである。
 江戸初期には、石盛は、反当り標準収穫量を実地に坪刈りして決定したものであるから、当時としては実情に即した収穫高である。その石盛と比較すると、上田五〇パーセント、中田五五パーセント、下田六二・五パーセント、下々田七五パーセントとなり、平均五七パーセントが年貢米として上納される。これは、先述の六公四民の高率に近い。これでは、農民の全剰余労働部分を搾取することになる。しかも品等の低下するに従って、逆に年貢率が上昇している。下等の田地を少々しかもちえない貧農は、年貢が必要労働部分にまで食いこんでしまっている。これでは自立再生産の途は残されていない。彼らは上層農民に依存してその庇護(ひご)を受け、辛うじて生計を維持するだけである。
 脚折村の場合、宝永三年には上田四五パーセント、中田四四パーセント、下田五六パーセント、下々田五七パーセント、平均三九パーセントで、四公六民と、赤尾村よりは低率であるが、寛政改革・天保改革にはやや上昇している。
 表―38の年貢率表は、割付状によって、年貢米の総量を水田の総反別で割って、年貢率を算出したものである。割付状は僅かしか残っていないので、宝永三年以前は算出できないし、それ以後も断続的である。
表4-38 年貢率
年号西暦天領坪内田安金田新見
石 斗升合石 斗升合石 斗升合
(470.000)(340.942)(130.146)
宝永三1706旱損引
1708斗升
享保十四17293.5
十五1730付荒
明和四17674.5
安永二17734.5
1778付荒
斗升
天明三年迄十か年定免4.5斗升
寛政元1789寛政元年より十一か年定免3.4
文化七1810(以下不詳)4.5
文政二18194.5
天保元18304.5
石   
(48.008)
斗升
1839定免4.4
十一1840石 斗升合
十二18414.7(90.902)
十三18424.6斗升
十四18434.6定免4.4
弘化元18444.54.3
1845定免4.6
1846
1847
嘉永元18484.5
1849定免
1850
1851
1852
1853
安政元1854
1855
1856
1857
1858石 斗升合
1859(48.008)
万延元1860斗升
文久元1861定免4.6
元治元1864
慶応元1865
明治元1868

 脚折村の領主関係は、頻繁(ひんぱん)な領主更迭(こうてつ)や、二給あるいは三給の相給関係で複雑を極めている。天正一八年家康の関東入国のさい天領となったが、寛永一六年(一六三九)川越領となり、元禄七年(一六九四)再び天領にかえり、享保六年(一七二一)三四〇石余が分割されて、旗本坪内知行所となり、そのまま明治維新に至った。残りの一三九石余は引続き天領となっていたが、明和四年(一七六七)田安領となった。天保三年(一八三二)三度天領に戻ったが、同一四年(一八四三)その内の九〇石余が分割されて旗本金田知行所となる。文久元年(一八六一)残りの天領部分四八石余が旗本新見知行所に移って、明治維新に至った。このように領主関係が甚だ複雑であり、一円支配地ではないのだが、年貢率は各領主が独自に決定するわけでなく、おおむね共通の年貢率であった。
 表―38で見るように、享保一四年には取米は反当三斗五升であったが、明和四年には四斗五升に上昇し、そのまま定免となって、幕末までつづいた。定免制は領主の農民に対する恩恵的政策の一つと思われがちであるが、その年貢率は一度引上げておいて、そのまま据えおかれる方法がとられたのである。
 この年貢率は、表―38に示された幕末における天領の三二―三〇パーセントに比べて、やや高率となっている。しかし、明治二年の「合毛(ごうけ)取調」によると、幕末の生産力は石盛よりはるかに上昇していることが分る。坪刈をした一六筆のうち、九筆目の収穫量は一坪五合であり、反当一石五斗となる。年貢量四斗五升は二八パーセントに当る。それで、農民は二八パーセントの年貢を納めたあとに、七二パーセントの剰余が取分として残るわけである。