代官や郡(こおり)奉行の指揮を受けて一村の管理に当るものを村役人という。幕府領では村方(むらかた)三役または地方(じかた)三役と称して、名主(庄屋)・組頭・百姓代がおかれていた。
名主は身分的には本百姓でありながらも、一般の本百姓よりもずっと社会的権威や経済的実力の高い存在であった。名主の家は玄関に式台がついていたし、着物も上等であった。寛永一九年に幕府が出した法令の中に「男女衣類の事、この以前より御法度の如く、庄屋は絹・紬(つむぎ)・布(麻・葛の)・木綿を着すべし。脇(わき)百姓は布・もめんたるべし」とあり、これに似た法令は以後も度々出ている。
このように外見だけでも、名主と普通の百姓とでは相当な差があり、すぐ分るようになっていた。兵農分離が徹底した江戸時代には、支配者たる武士は農村にいないのが原則で、時々代官所の手代や、旗本の家来がやって来る程度であった。代官や旗本自身の廻村はほとんどなかった。それで、武士がいなくなった代りに村民統治の任にあたったのが名主である。領主は名主の社会的地位を高めるような方策を立て、それにふさわしい者が名主に就任するように努めてきた。しかし名主はあくまでも百姓だから、領主の命令には従順でなければならなかった。
名主は初期にはほとんど世襲であった。しかし、時の経過とともに没落する家も当然出てくるし、組頭クラスの家でも台頭してくるものもある。当町内の名主家はみんな途中で交替している。名主家は草分け百姓といわれる家格をもつが、長い年月をそのまま維持することはとうてい不可能だったわけである。一般には享保頃から一代限りの名主も多くなってきた。世襲の名主と一代限りの名主とでは、その家に払われる社会的尊敬は前者に高いのは当然である。しかし、名主は貧乏百姓の中から選ばれることは絶対ない。名主の任命は代官や旗本の許可が必要であるからである。