2 名主の仕事

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 名主の仕事は決して暇ではないし、責任も重い。領主からの法令や廻状、年貢割付等の公式書類はすべて名主に来る。人別帳や五人組帳等々の領主から提出を命ぜられる書類は、名主が責任を負って作製せねばならない。年貢を村の百姓に小分けする場合の責任者もまた名主である。年貢納入にあたっての名主の責任は一段と重い。つまり村の行政上の運営にあたっては、何から何まで名主の責任で、自分の手で仕事を行う。
 慶安二年の御触書(おふれがき)は、その冒頭に「公儀御法度(ごはつと)を怠り、地頭・代官の事をおろそかに存ぜず、さてまた名主・組頭をば真の親とも思うべき事」と村民に命じている。しかし、名主等の村民に対する行政は過度に干渉的であり、あたかも祖父母・父母が子や孫に対するような態度で、村民の日常の行動を監督した。百姓の中で農業を一生懸命に励まない者や、酒に酔って他人に乱暴した者に対しては、説教をして始末書をとった。放蕩息子には意見を加え、親不孝の娘には皮肉たっぷりに説諭し、金銭貸借関係では強引に裁判し、夫婦喧嘩には巧妙に仲裁した。それで名主(庄屋)は、「地震・雷・火事・おやじ」のその〝おやじ〟として村民より恐れられ、その威権は鉄砲の威力にも勝るものと考えられた。狐・鉄砲・庄屋の拳(けん)では、庄屋は鉄砲に勝つ約束になっている。
 しかし、村民の生活に密着している名主の立場は、実際には非常に微妙な場合もあった。名主は百姓でありながら、領主側の立場に立つことが原則ではあったが、領主のひどい年貢収奪や、幕府の重い課役(例えば、助郷触当(すけごうふれあて))に対しては、百姓の困窮を見るに忍びず、一般百姓を代表して訴訟を起すようなことも少なくなかった。承応二年(一六五三)下総国佐倉藩領に起った百姓一揆の指導者佐倉惣五郎はその例である。これとは逆に、名主という社会的地位や権力を利用して、村民を苦しめ、襲撃されるようなこともあった。毛呂山町内の旧村では、明治維新になるや早々に、旧幕時代からのうっ積した怒みを晴らすため、名主の家を焼いてしまったという。