(イ)検見の立会い (ロ)年貢の割付け (ハ)年貢取立 (ニ)助郷(別項に詳述)
(ホ)通行手形の発行
往来一札之事
武州高麗郡大塚野新田
吉右衛門父
滝右衛門
一、此度此者、多年の心願に付、讃州象頭山金比羅並に諸国神社仏閣参詣に罷(まか)り出で候ところ紛(まぎ)れ御座なく候。何とぞ御慈悲を以て、所々国々御関所相違なく御通し下さるべく候。もしまた、かく言い候節は(※)、御憐愍(れんびん)を以て、一宿の御許容下さるべく候。万一、往き先にて病死等仕り候はば、その所々の御作法を以て御取成し下さるべく候。その節、御沙汰には及び申さず候。後日のため往来一札よって件(くだん)の如し。
御代官小野田三郎右衛門支配所
高麗郡大塚野新田
名主 吉右衛門
※「かく言い候節は」のところは、「諸国行程大日本道中指南車」では「相煩(わずら)い候節は」となっている。
昔の旅は大へん厳しかった。いったん旅に出ると電話も電報もないので旅先から家に連絡はできない。芭蕉は「奥の細道」で「古人も多く旅に死せるあり」と旅のきびしさを歎きながら「自分は軽い気持で東北地方へ旅立つことになったが、わが身は旅先で老いこむようなはめに陥ろうとも、これまで噂にばかり聞いて、実地に目で見ない境地を見て、万が一にも命拾いをして、無事に帰れたら、どんなに嬉しいことだろう」(意訳)と記している。それだから旅立ちにあたっては、家族と二度と会えないかも知れない別れだというしるしに、酒の代りに水杯(さかずき)をかわした。そして家族や親戚・近隣の者どもは村はずれまで送って無事を祈った。また、本人が旅行中は腹が減らないようにと、念の入った蔭膳(かげぜん)をそなえた。これは大へん大げさな旅行風景だが、当時の人々にとっては、実感のこもるものであった。
旅行中の災難としては、病気になったり、路用が乏しくなったり、街道や旅籠(はたご)・木賃宿でのごまのはい・雲助による掏摸(すり)や追剥(おいはぎ)である。その他に最も恐ろしいのは関所・番所であった。幕府の旗本さえも箱根関所を通るときには「笠を脱ぎ、草鞋(わらじ)を草履(ぞうり)にはきかえて関を過ぐ」のであった。一般庶民が関所を通るのに戦々恐々としていたのは無理もない。番所は各藩が自分の藩への出入りを取締るために設けたものであるが、重要な産物を自藩から持出したり、他所から危険な物資を持込まないよう監視もした。関所も番所も往来手形がなければ絶対に通してもらえなかった。
「行倒れ」も旅人の悲惨な運命の一つであった。死人は「行路死亡人処理報告書」を添えて、村役人の監督のもとに処理された。
脚折村では安政五年(一八五八)五月三〇日、境堀(下山田付近)に行倒人があり、村役人一同立会い取調べたところ、本人は大類村へ行きたいと答えた。それで大類村へ使をやって問合せたが、本人の住所は平松村だから、そちらへ運んでくれという。村役人は致し方なく、本人の心任せにしておいた。ところが六月二日に、下浅羽村で死んでいるのが見つかった。この遺骸は下浅羽村だけに任せておくわけにもいかないので、両村共同で村継ぎに三ツ木村まで送った。(『鶴ケ島町郷土史資料集・第一集第二集』)
これより古く、寛政九年(一七九七)九月、高倉村の鎮守山の裏、下新田境道の縁(ふち)に行倒人があった。介抱したが夜になって死亡した。村中惣百姓が評議の上、今は麦作蒔(ま)きつけの季節だから、往来手形の文言に任せて、長泉寺が引導を渡して埋葬した。このことについて、後日に御吟味があったときには、村役人と惣百姓がつぶさにこの始末を申し上げる。よってこのような申合せをする、として組頭・百姓代を含め、五五人が連印して、名主あてに申合文を書いている。(『鶴ケ島町史』近世資料編Ⅳ)
人相書と遺留品
一 三〇歳ぐらいの坊主
一 丸顔、中ぜいで、唇厚く、病身体(てい)
一 衣類は浅黄の小紋、木綿で古綿入一枚
一 浅黄木綿の古い単物(ひとえ)一枚
一 帯は古い木綿の小倉で萌黄(もえぎ)色
下帯(ふんどし)なし
一 草鞋は脇に脱いである
一 絹(きぬ)の縞(しま)の古い小さな三徳
一 銭入れは早道(はやみち)(きんちゃく)
一 大般若勧化(はんにゃかんげ)帳と反古四、五枚
外に何も所持品はない
このように、当町内だけでも二件の記録が残っている。芭蕉の記すように、旅に病んで旅に死する人はずい分多かったと思われる。行倒人となれば、「通行手形」に書いてある通りに、病死先の村の慣習に従って、無縁仏として埋葬されるだけである。