(イ)人別改め 幕府は、初めは切支丹改めのために、人別改めを行ったが、享保以後は主として人口調査(移動防止のため)の目的で、村役人に、子(ね)年と丑(うし)年(六年毎になる)に、村内の人別帳を作製させた。これは切支丹改めの目的で、毎年作成させる宗門改帳とは、その目的も内容も異なるものであるが、実際には「宗門人別帳」として、両者は合体した。
(ロ)宗門改め 島原の乱があれだけの大乱となったのは宗教信仰が将軍に抵抗するだけの信念を与えたからであった。農民にとっての絶対者は将軍ではなく、前には阿弥陀であったが、ここではデウスであった。それは将軍の絶対性を批判し、幕府体制を根底から揺るがすことになる。そのキリスト教を根絶する手段として密告者に賞金を渡す方法をとったが、更に強化して寺請制度を発足させ、宗門人別帳を作製させることになった。こうして諸職人衆を除く江戸時代のすべての日本人は、生れるとすぐに宗門人別帳に登録され、仏教徒の一人として家の所属する宗派寺院の証印をうけ、村役人を通して領主に報告する義務を負うことになった。宗門改帳が戸籍の役割を果たしたのはこのためであった。
寺請制度は、寺がすべての人々の信仰について、「邪宗」でないことを保証し、人々はまた生まれながらにしてその寺の檀家に帰属する制度であった。
中世以来の民衆は檀那寺をもつ者は極めて希少であったが、それが今や、すべての人々が在々所々の寺院と寺檀関係を結ばねばならぬことになった。しかも個人としてでなく、家を単位としてである。仏教信者でなくても、形式上どこかの寺院に帰属すればよく、信仰は形式化し、生れる前から宗旨と檀那寺が決定していることになった。檀家制度は信仰を空洞化し、寺と檀家の主要な関係は葬儀と年回(ねんかい)の行事に移っていった。
「送り一札」は宗門送手形ともいう。縁組や引越などで住居を変更する場合、当人の続柄・移動の理由などを記し、切支丹でないことを証明した送籍状で、寺請状・寺手形を添えて、移動先の名主へ送った。この手形が受理されると、相手名主から「落着一札」が発行された。
(甲)送り一札
縁女(※)送り一札之事
一 当村金左衛門妹 くに
年三拾六歳
右は笠幡村新六殿、其御村方長右衛門殿両人仲人を以て、其御村方喜左衛門殿女房に差遣(つかわ)し申し候ところ実正に御座候。然る上は、当村宗旨人別帳相除き申し候間、其御村方宗旨人別帳面に御加入成さるべく候。右の者、御法度(ごはつと)の悪宗門にてはこれ無く候。後日のため縁女送り一札、依って件の如し。
稲生(いのう)七郎右衛門知行所
天保三年 入間郡多和目村
名主 卯右衛門
脚折村御名主中
※縁女 結納(ゆいのう)の取替(かわ)しによって男女は縁夫・縁女となり、祝言(しゅうげん)によって夫婦となる。
(乙)落着一札
落付手形之事
其御村方多兵衛殿女子
一あき 年弐拾壱
右の女子、上新田村治郎右衛門仲立にて、私村内丈右衛門女房に貰い請け申し候ところ相違御座なく候。然る上は、此方(こなた)村方人別帳面に書き済(すま)し申し候間、其御村方人別御帳面相除(のぞ)き成さるべく候。後日のため落付一札、仍(よ)って件(くだん)の如し
松平大和守領分
天明三卯年正月 高麗郡笠幡村
名主 宅右衛門
清水様御領知
高麗郡上新田村
御名主中