五人組制度では五人組帳を作って、組合員の名前を記し、領主、代官に提出するが、その帳の初めには、農民の守るべき事柄が箇条書きに記してある。これを「五人組帳前書」と呼んでいる。それは五人組として必要なことばかりでなく、農民として守るべきあらゆることが加えられている。それで、脚折村の前書(※註1)は一四七条に及ぶ長文になっている。それを村役人は周知徹底せしめ、違背のないように努めなければならなかった。脚折村の前書の終りに次のように書き添えている。
右の通り、この度申し渡し候間、一同月々再々読み諭(さと)し、悪事に移らず、善事に導き候よう、心掛け申すべく、もし違背いたし候ものこれあるに於ては、当人は申すに及ばず、組合・村役人まで急度(きつと)(※註2)仰せつけらるべきものなり
〔註〕
(1) 『鶴ケ島町史』近世資料編Ⅲ
(2) 「急度叱(しかり)」の略。栄誉刑(江戸時代、人の名誉をおとし、恥をかかせる刑)の一つ。白洲に呼び出し、その罪を叱る。叱と急度叱の二つあった。
これらの複雑多岐な諸箇条がどれだけ忠実に守られていたかについて疑問をもち、過小評価する者もあるが、どんな法令でもそれがすべての人に忠実に守られるということはない。守られないがために法規として取締り、罰則を設けるのである。ただわれわれにとって大切なことは、徳川封建社会の「期待された農民像」がどんな内容をもったものであり、この多数の法規が、たとえ領主側の支配のための便宜から作られたものとはいえ、領主側の、またそれを正当なものとして、さしたる抵抗もなしに受入れた農民側の、封建的人間像がどんなものであったかを知ることである。