田安家御触書

379 ~ 381
寛政三年(一七九一)八月に、領主田安家から、上方・甲州・関東の村方の困窮を立直らせるため廻村するが、その費用を節減するため、次の箇条を守れという触書である。
(1) 江戸へ廻米するための村方入用を半減せよ。
(2) 年貢を代官へ上納するさい、付添いの村役人を過半数減らすこと。
(3) 代官や地方(じかた)懸りの役人が廻村するとき、駕籠に乗るようなことはしないから、不用の人足を出さないこと。
(4) 代官の廻村の節、宿の米代は玄米を一夜泊りで七合、昼食三合出すこと。
(5) その場合、一汁一菜にして、その村有合せの野菜を出すこと。
(6) その費用は村入用帳に書いて、代官に差出せ。理由のない金高だったら、調査の上、村役人に自弁させる。
(7) 検見や廻村で止宿するとき、座敷の畳替えや障子の切張りなどしない。床の間の懸け物などを調えないこと。
(8) 村入用帳を表向き帳簿と、裏帳簿の二重帳簿を作らないこと。
(9) 代官や掛りの者が御用のため出張したさい、途中まで出迎えたり、陣屋や宿泊先へ挨拶に伺ったりするのは、村入用が増えることになるから止めよ。
(10) 差しあたっての御用はないのに、夜中、陣屋へ出向かないこと。
 その次に、追加として、村方困窮が立直るまで、村入用を減らすための心得一〇か条が列挙してあるが省略する(『鶴ケ島町史』近世資料編Ⅳ参照)。
 このような御触書を田安家が布達せねばならなかった理由は、当時の社会状勢と、田安家の内部事情によるものであった。
 社会状勢については、武陽隠士の著した「世事見聞録」によることとする。
  当世かくのごとく、貧富かたより、勝劣甚しくできて、有徳(うとく)人(裕福な人)一人あれば、その辺に困窮の百姓が二十人も三十人もでき、たとえば大木のかたわらに草木が生い立ちかねるごとく、大家のかたわらには百姓も立ちかね、自然と福有(富裕)の威に吸い取られ、困窮の者あまたできるなり。福有はその大勢の徳分を吸い取りて一人の結構となし、栄華を尽し、あるいは他所までも財宝を費(つい)えるほどの猶予(ゆうよ)できるなり。さてまた盛衰の懸隔(けんかく)(かけへだたる)なる体(てい)をここにいう。右体(てい)、過分の田畑を持ち余したるものあれば、耕作すべき地所もなき者でき、また年貢をわずかばかり納めて有余る米をたくさんなる者あれば、年貢できず、領主・地頭の咎(とが)にあう者もでき、また米五十俵・百俵ないし二百俵とも売払う者あれば、節句に米の飯も食べかね、正月に餅つきかねる者もでき、あるいは子供を寵愛(ちようあい)に余る者あれば、子を売る親もでき、あるいは家蔵(いえぐら)を結構にし、座敷をも襖唐紙(ふすまからかみ)を立て、畳を敷き、絹布を着たる者あれば、屋根漏り、壁破れ、竹の簀子(すのこ)落ち、古き筵(むしろ)切れ、身に覆う衣やぶれて、飢寒に堪えかねる者もできるなり。
 と、今までは小前の百姓を中心に、とにかくなんとか粒々辛苦して、生産を営んできた村々が、ここに至ると大きく変ったのである。武陽隠士がいうように、富有が一人おれば、その周囲には困窮の百姓が二〇人も三〇人もいるというふうに、貧富の差が拡大してしまった。
 村の政治にいろいろな権限をもつ村役人は、その特権や、これまで蓄えてきた富を利用して、小作地をひろげ、商売を始めてますます成長していった。土地を奪われた小前たちは、年貢のほかに小作料も納めなければならぬ。小作人というだけでなく、地主の家の仕事にまで何かにつけてこき使われたりもする。また、それだけでは食べていけないから、百姓仕事の合間には日雇(ひよう)稼ぎや奉公にも出なければならなくなった。しかも、困ったときに村役人らはもう昔のように助けてくれない。次第に計算高くなった小前百姓らは、どうも村役人らが甘い汁を吸っているのではないかと疑いをもつようになった。村の政治を糺(ただ)すことで、少しは生活が楽になりはしないかと考えたわけである。
 小前らの疑いが、神聖な「御年貢」や「村入用」をめぐる疑惑であれば、当然、年貢の納入も不安定になるし、村入用をめぐって村役人糺弾ののろしが上がることが多くなる。このことは村の風紀を乱し、ひいては一揆の温床にもなりかねない。小さな村の出来事とはいえ、領主にとっては見過すことのできない問題である。だから、田安家は村方困窮立直りのため、御代官ならびに地方掛りは襟を正し、村役人は自粛して、村入用の公正かつ質実な支出を命じたのである。
 田安家がこの御触書を出した翌々年、寛政五年には、甲州田安領で総百姓が徒党を組み、強訴(ごうそ)するという、一大事件が勃発した。この事件は甲州田安家の内蔵する弱点を暴露したものであるが、その事件を予知するかのように、寛政三年のこの御触書は、村入用支出の上で、御代官・地方役人の弛緩した廻村ぶりを語っている。
 
 当時は内憂外患こもごも至る時代であった。宝暦二年(一七五二)にロシアは東方侵略を開始し、北太平洋に勢力を進めることになった。そして安永二年(一七七二)に初めて日本に使節を送ってきてから、北辺にわかに騒然となった。ロシアの南下とともにイギリス・フランス・スペイン等も北太平洋に進出し始めたからである。そして寛政初年からは、日本沿岸への外国船の出没が相次ぐようになった。
 ペリーの率いるアメリカ艦隊が嘉永六年(一八五三)浦賀に入港すると、人々の恐怖は絶頂に達し、勅令を以て外夷退散の祈祷が各地で行われた。泰平久しく安逸を貪(むさぼ)っていた人々は、鎧かぶとの戦国時代の戦争しか知らなかったので、侍は武器・調度を持運び、市中の古着屋では陣羽織や小袴・たっつけなどを掛けならべ、鍛冶屋も武具屋も急にいそがしくなった。町の者は早鐘(はやがね)が鳴り出したら、どこへでも逃げるのだと覚悟していた。往来の人の顔色も尋常ではない。
 落ちつかない人々の前で、各地の陣屋から昼夜を分たず注進の馬が駈け通り、飛脚の来るのが櫛の歯を引くようにいそがしかった。
 その上、安政元年(一八五四)にはブチャーチンの率いるロシア軍艦が、大阪湾深く押入ってくるに及んで、夷狄(いてき)への危機感は一そう高まり、天皇遷幸の噂(うわさ)さえ立って、公卿は恐怖のどん底に落ちた。
 このように、外患のために人々の心は恟々(きょうきょう)として落ちつかない時代であった。社会不安と、貧富の格差がいちじるしいための貧乏百姓の怨嗟(えんさ)、役人衆の腐敗が重なり合って、ついに一揆・打ちこわしへと展開したのである。